2015年9月2日 星期三

實松讓:《日本海軍英傑傳》

山口司令和加來(止男)艦長,以一瓢水解終日之渴後,即對周遭之嗚咽聲視若無睹,以恬淡語氣相互交談起來。

「月色真美啊!艦長。」

「果真是一輪明月。今天是陰曆二十一吧……」

「真是太美了。今夜正好可以邊賞月邊聊天。能求得如此完美終結場所,實乃軍人之宿願也……」

此時,主計長向艦長提出請示「艦內保險庫內,尚存不少金錢,當作如何處置?」

艦長聽罷,語帶詼諧地答道:「陰間裡渡河也得花錢嘛,原封不動別管它吧……」

司令官聽了,也若無其事般附和:「沒錯,在地府裡如想吃飽喝足,也得花錢嘛……」

……此時,海上平靜無波,一輪晈潔明月高掛。

聽見司令官跟艦長之間「賞月」對話之人,無一不感椎心之痛。

司令官將伊藤(清六)參謀及鹿江(隆)副艦長喚至跟前。

「逢此作戰期間,諸君前途難以估計,今有一事特地託囑二位,請將之傳達艦隊長官處。也就是說--」說著,端正姿勢,以嚴肅語調說:

「陛下之御艦毀於一夕,實感不勝愧咎。雖然,能做到之本份皆以克盡,但是未能徹底摧毀敵艦之前便遭此重挫,深感遺憾。務請代報此仇。同時祝福長官武運昌隆--就這些話,拜託兩位了!」語畢,司令官便沉靜地步向艦橋,艦長亦緊隨其後。參謀見狀,立即追上前。
「司令官,請留下紀念遺物。」

於是,山口將頭上軍帽取下,交到伊藤中佐手上。

訣別之時終於到來,鹿江副艦長將軍艦旗納入懷中,伊藤參謀則緊握山口司令官之軍旗及軍帽,二人懷著難捨難離之情,撤艦離去。

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光人社NF文庫、
日本海軍英傑伝
サブタイトルは日本海軍人物太平洋戦争です。

筆者は、
実松譲さん。
海兵51期、海大卒だそうです。
五十鈴航海長を経て、
海軍省副官兼大臣秘書官(米内光政)となり、
開戦当時は在米海軍武官補佐官、
帰朝後は大本営海軍参謀兼海軍大学校教官で、
元海軍大佐という方です。

51期なので、岡村さんと源田さんの真ん中の卒になりますね。

次、各章と、その他。
長くなるので、
特別気になった所を中心に。

・木像「火焔菩薩」と化す空母「蒼龍」艦長柳本柳作の最後
→こちらは前の柳本柳作艦長の記事で書いたのと同じです。

・炎の艦橋に立つ二つの影 山本多聞少将と加来止男大佐の闘魂
→皆様ご存知と思いますが、ミッドウェーにおける飛龍の話です。

・敵空母三隻、地点ルソク25 特設特視艇隊乗組員たちの志気
→こちらは米軍側のドーリットル隊と漁船を徴収した特視艇隊との話になります。半分以上ドーリットル隊の話ですね。陸軍のドーリットル隊とミニッツ提督という異色とも言える組み合わせが何故実現したか、が中心です。

・躍如たり、海員魂 商船隊のサムライたちの生と死
→商船隊の人々の話です。太平洋戦争に於ける船員の被害は死亡三万二百八十人、傷病者が七万四千六十七人、合計十万四千三百四十七名にのぼります。その中の、長崎ー上海間の日華連絡航路の長崎丸、上海丸、神戸丸の、s十七年五月十三日の話をピックアップしております。

・君がため散れと育てし花なれど 特殊潜航艇長松本敬宇の突入と母の航跡
→特殊潜航艇の話です。特殊潜航艇関係で特に有名なのはやはり真珠湾の岩佐中佐を始めとした九勇士かと思いますが(以前別の記事にも書きましたが)、こち らは海兵六十六期の松尾敬宇中尉、秋枝三郎中尉、中馬兼四中尉が中心となった第二回特別攻撃隊で、目標はオーストラリアのシドニーです。
中馬兼四中尉ー大森猛一等兵曹
松尾敬宇中尉ー都竹正雄兵曹長
伴勝久中尉ー芦部守一等兵曹
何故かあとの秋枝中尉と岩瀬少尉については詳しい記述が無かったように思います。
これによれば、オーストラリアでは海軍葬にて手厚く葬られ、今は招魂碑が建てられ、キャンベラの戦争記念館にて、この特殊潜航艇は保管されているそうです。

・太平洋ただ一つの降伏状 マキン環礁に斃れた守備隊員の武勲  マキンの戦い
→ギルバート諸島の北端マキン環礁は最大の島ブタリタリの海軍陸戦隊、守備隊長は金光九三郎兵曹長とエヴァンス・E・カールソン海兵中佐の率いる第二海兵奇襲大隊の話です。まぁ事故みたいな話ですが、何が起こるかわからないというのが戦争の常ですからね。そういうこともあるでしょう。ただ、立派に戦い抜い たという事は確かだと思います。

・指揮官陣頭、信念に殉ず 第二十六航空戦隊司令官有馬正文の決意
→時折本によってはこの後の特攻の先駆けとも書かれている有馬さんの話です。少しだけ、武井さんや吉岡さんが出てくるかと期待していましたが、出てきませんでした。
高木惣吉少将との会話と、高井貞夫大尉の話については、載っていて良かったです。

・敷島の大和心を人問わば 神風特別攻撃隊長関行男・植草真久の青春
→先ずこちらは、海兵70期関さんと予学十三期の植草さんの話です。
予学十三期の期会誌五千円だったのにな……買っとけばよかったな……と後悔は尽きません。植草少尉は立教大卒からの海軍航空隊入隊で、第十三期飛行予備学生四千七百二十六人の一人として、三重航空隊→高雄→大村→セブ島201空という経歴だそうで。
関さんはまぁ、大丈夫でしょう。
途中から山本大佐がさり気なくフェードアウトしてますが、マニラの一航艦司令部から大西中将と会えなかった山本大佐はマニラからマバラカットに、中島飛行長の操縦する零戦で帰ろうと思ったら不時着して左足首を骨折したからですね。
この際、
大西瀧治郎中将、猪口力平中佐、玉井浅一中佐、吉岡忠一中佐、指宿大尉、横山大尉となっております。
その後、そのメンバーの九期から殆どを選ばれる事になり、指揮官として選ばれたのが菅野さん不在で次に名の上がった関大尉になります。関さんに関しては、まぁ一つ言うなら菅野さんとは似てませんということでしょうか。
関さんやこの特攻に関しては、おいおい長々と書きたいです。
植草さんについても、詳しく調べたいですね。今度目の前に予学十三期の期会誌が現れたら、確実に買いますよ。

・被害担当艦の誉れ悲し 戦艦「武蔵」艦長猪口敏平の真面目
→こちらも別の記事で書いたものと同一です。後で気付きましたが、参考文献が吉村昭の「戦艦武蔵」でした。吉村昭を読みましょう。

・その栄光を後昆に伝えん 伊藤整一、有賀幸作と戦艦「大和」
→大和ですからね、菊水作戦です。こちらの有賀さんは羅針盤に身体をくくりつけてビスケットを食べながら殉職する有賀さんです。なんせ、参考文献が吉田満の「戦艦大和」ですから。
大和なら、最後に生き残った方々が不遇な目にあったところまでが一連の流れだと思っておりますので、そこが無いのは非常に残念です。あと、森下さんが目立たない。私は森下さんが好きなもので、あんまり記述がなくて少し残念です。
神重徳大佐の台詞は、高木惣吉さんの「私観太平洋戦争」からの引用だそうです。すごい、訛りですね。少し読んでみたいです。

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