太平天囯のことは清国の商船及び朝鮮から対馬藩を通じて幕末の日本に伝えられた。当初太平天囯はキリスト教が土着化して発生した反乱とは見られておらず、明朝の後裔が起こした再興運動だと日本人は思っていたようだ。つまり今風に言えば満洲人支配に反抗する漢民族という図式の民族紛争と捉えていたことになる。これは「滅満興漢」というスローガンが強調されたこと、 辮髪を 落としていたことが原因であろう。清朝では「頭を留めるものは髪を留めず、髪を留めるものは頭を留めず」といわれるように、辮髪の有無がその支配を受容し たか否かの基準となっていたからだ。また農民など低階層が乱の主体であったという認識も希薄であった。この事は1854年前後に太平天囯の乱をモデルにし たとみられる中国大陸を舞台とした明朝復興物語が講談・小説の形式で複数出版されている事からも分かる。
しかし『満清紀事』・『粤匪大略』といった書物が日本にもたらされると、知識人層の太平天囯に対し好意的な評価は一変した。洪秀全が明朝の後裔ではないこと、キリスト教を信仰していることが伝わったためである。特に前者は朱子学的な大義名分論と正統論の点で嫌悪感を与え、後者は島原の乱を想起させ、幕末の世論に影響を与えた。太平天囯への嫌悪感は、実際に乱を見聞した人々にも継承されていた。1859年にはイギリス領事(後の公使)オールコックから江戸幕府に対して、軍用馬の3千頭をイギリス軍へ売却してくれる様に要請があった。幕府も国内の軍事的需要を理由に当初は躊躇したものの、英仏両軍に1千頭ずつ売却する事に応じて翌年夏までに実施された(この前後の日本の輸出品の中には主力品である生糸や茶の他にイギリス・フランス軍のために用いられたと思われる雑穀や油などの生活必需品の輸出記録が目立っている)。更に太平天囯の末期にあたる1862年6月2日、幕府の御用船千歳丸というイギリスから買い取った船が上海に到着した。交易が表面上の理由であったが、清朝の情報収集が本当の任務だった。江戸幕府は、清朝の動乱や欧米列強のアジアでのあり方に深い関心を寄せていたのである。乗船していたのは、各藩の俊秀が中心で薩摩藩の五代友厚や長州藩の高杉晋作らがいた。乗船していた藩士の日記には太平天囯について「惟邪教を以て愚民を惑溺し」、「乱暴狼藉をなすのみ」という表現がならぶ。
また、日本国内においては海防の充実と国内改革による民心の安定化を求める論議が急速に高まる一因となった。早くも吉田松陰が「(奈良時代の)天平勝宝年間に唐の安史の乱に際して当時の朝廷が大宰府に非常態勢を布いて以来」の危機である事を著書の『清国咸豊乱記』で指摘している。こうした主張は薩摩藩の湯藤龍棟や古河藩の鷹見泉石らも同様の意見を相次いで唱えた。
ただ辛亥革命前後から、太平天囯への評価は再び持ち直したようだ。これは中国本土でも同様であった。革命の立役者孫文が太平天囯に深く傾倒していたことや、キリスト教信仰が明治維新以後解禁されたことから抵抗感が薄れたためであろう。洪秀全たちは長崎から亡命した大塩平八郎が名を変えたもので、その後太平天囯の乱を起こしたのだ、という珍説まで一時流布した。
太平天囯と日本との逸話は、世界恐慌時代にもあった。洪秀全の郷里広州花県に、1930年代(年不確定)に日本軍から洪秀全の子孫だという兵士が二人訪れたという話がかの地に伝えられている。これは日本軍の宣撫工作であったと思われる。
また、中国の王暁秋や日本の広沢吉平らは、欧米列強が清と同様に開国したばかりの日本でも太平天囯の乱と同様の民衆反乱を誘発する事への危惧から、明治維新前後の日本国内の戦乱に対して直接的な軍事介入を行うことなく、結果的には列強が日本を植民地化する機会を逸したとする説を唱えている。
太平天囯の史料について
日本語訳されたものを挙げる。
• 『清末民国初政治評論集』 西順蔵・島田虔次編、平凡社「中国古典文学大系.58」、1971
o 『原道覚世訓』『天朝田畝制度』等七編を収める。
• 『原典中国近代思想史』第一冊、西順蔵編、岩波書店、1976
o 『原道救世歌』や『原道醒世訓』、外交文書等複数。
• 『中国政治論集』 宮崎市定編訳、中公文庫、1990/中公クラシックス、2009
o 『李忠王自伝』と、曽国藩『金陵克復摺』を収める。
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