2015年4月29日 星期三

戰前日本第一艦隊訪港名錄

第1戰隊:長門(旗艦)、陸奧、扶桑
第1水雷戰隊:天龍
‧第13驅逐隊:吳竹、早苗、若竹、早蕨(若竹型驅逐艦)
‧第15驅逐隊:藤、萩、蔦、薄(樅型驅逐艦)
‧第16驅逐隊:芙蓉、夕顔、朝顔、刈萱(若竹型驅逐艦)
‧第26驅逐隊:栂、楡、柿、栗(樅型驅逐艦)
給油艦:鶴見


聯合艦隊
司令長官:加藤寛治(大將)1926年12月10日-1928年12月10日
參謀長:濱野英次郎(少將)
參謀:佐藤?郎(中佐)
  :浮田秀彦(中佐)
  :木幡行こはた つよし(中佐)鬼怒艦長
  :稲垣生起(中佐)比叡/加賀艦長
  :中島寅彦(少佐)川內/長門艦長
  :大西治郎(少佐)加賀副長
  :光延東洋(大尉)
  :岩本鼎(機關少佐)
副官:相浦小七(中佐)
  :光延東洋(大尉)
機關長:伊知地四郎(機關大佐)
軍醫長:壁島爲造かべしま ためぞう(軍醫)
主計長:三輪寛(主計)
聯合艦隊司令部附:圓山英勅(少佐)
同法事務官:小田垣常夫
湊乾助(海大尉)
東島嘉一(機關大尉)
江崎岩吉(造船少佐)
吉岡青吉(主計中尉)

長門
艦長:松下薫(大佐)1927年12月1日-1928年12月10日
副艦長:岡田一(中佐)1927年12月1日-?→大井艦長:1930年12月1日-1931年4月1日
航海長:茂泉慎一(中佐)摩耶/大鯨/赤城艦長
砲術長:石黒虎雄(中佐)
水雷長:弓削末蔵(中佐)
通信長:大塚幹(少佐)
運用長:小暮軍治(中佐)開戦時の戦艦陸奥艦長(1941年8月11日-1942年6月20日)
副砲長:?妻?二
機關長:須田稔すだ みのる(機関中佐
軍醫長:野口猪之助(醫中)
主計長:渥美龍夫(計中)

陸奧
艦長:堀悌吉(大佐)1927年12月1日-1928年12月10日
副艦長:井澤春馬(中佐)
航海長:松浦永次郎(中佐)名取/金剛艦長
砲術長:堀江亥之吉(中佐)敷島型戦艦(1898年11月1日進水-1948年解体)敷島特務艦長
水雷長:田村直支(少佐)
通信長:一瀬信一(少佐)
運用長:野岡一幹(中佐)
副砲長:徳永榮(少佐)
機關長:?藤武三機中
軍醫長:工藤真雄(醫中)
主計長:今井三二(計少)


扶桑
艦長:市村久雄(大佐)1927年8月20日-1928年12月10日
副艦長:松原雅太(中佐)
航海長:居谷吉春(少佐)砕氷艦大泊特務艦長
砲術長:青木節二(少佐)
水雷長:伊藤辨(弁)之助(少佐)
通信長:塜越彦太郎(少佐)
運用長:永田良三(中佐)
副砲長:石川信吾(少佐)
機關長:澤川七郎(機中
軍醫長:中本鶴一(醫中)
主計長:小園江芳之介(計少)

鶴見
艦長:大野功(大佐)
副艦長:坪田季一(大佐)
航海長:?谷清見(大尉)

運用長:內藤?(少佐)
機關長:根本金?(機關少佐)
軍醫長:福山邦寛(醫大尉)
主計長:川村久三郎(計大尉)

天龍
艦長:菊野茂(大佐)1927年11月15日-1928年12月10日
副艦長:佐野哲(中佐)→白雪(艤装員長:1928年8月1日)1928年12月18日 - 1929年11月30日
航海長:關郁乎(少佐)
砲術長:掘(堀?)九郎(大尉)
水雷長:島崎利雄(大尉)
通信長:森玉賀四(大尉)


機關長:佐難波濠平機関中佐
軍醫長:內野博(醫大尉)
主計長:中村明徳(計大尉)


第1水雷戰隊司令部
司令長官:岡本郁男(少將)雷型驅逐艦雷/比叡艦長
參謀:伍賀啓次郎(中佐)給油艦鳴戸/青葉/妙高艦長
  :崎山釋夫(少佐)三艦長(戰死)
  :野村留吉(大尉)
  :今泉英三(機關少佐)
機關長:迫間氣機関大佐

第15驅逐隊
司令:染河啓三(中佐)江風級驅逐艦谷風/衣笠艦長
機關長:平井龍吉機関少佐
軍醫長:中村博鄉(醫中尉)
主計長:小林凖一(計大尉)
艦長
藤:武田喜代吾(少佐)1926年2月1日-1928年12月10日
:清水他喜雄(少佐)
:宮武重敏(少佐)
:高橋一松(少佐)

第16驅逐隊
司令:中島直雄(中佐)
機關長:酒見匡(機関少佐
軍醫長:佐伯尚(醫大尉)
主計長:末広良三(計大尉)
艦長
第十六号駆逐艦(芙蓉):安富芳介(少佐)1927年12月1日-1928年12月10日
第十二号駆逐艦(夕顔):平塚四郎(少佐)1926年11月1日-1929年11月1日
第十号駆逐艦(朝顔):難波祐之(少佐)1926年11月1日-1928年12月10日
第十八号駆逐艦(刈萱):矢野志加三(少佐)1927年12月1日-1928年12月10日  飛龍艦長

第26驅逐隊
司令:神山忠(中佐)古鷹艦長
機關長:佐野宮三郎機関少佐
軍醫長:田代恭助(醫中尉)
主計長:矢野兼武(計大尉)
艦長
栂:河原金之輔(少佐)1928年2月1日-1928年12月10日
楡:松永貞巿(少佐)
柿:山本正夫(少佐)
栗:伊崎俊二(少佐)1927年12月1日-1929年11月30日   神通艦長(戰死)

第13驅逐隊
司令:松田鹿三(中佐)如月艦長
機關長:佐木原直孝機関少佐
軍醫長:稲田勉(醫中尉)
主計長:稲葉正(計中尉)
艦長
第四号駆逐艦(吳竹):藤田俊造(少佐)?- 1929年11月30日
第六号駆逐艦(早苗):橋本象造(少佐)1927年12月1日-1928年12月10日
第二号駆逐艦(若竹):西村祥治(少佐)1927年11月1日-1928年12月10日
第八号駆逐艦(早蕨):手束五郎(少佐)1927年8月10日-1929年11月1日



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13
吳竹(くれたけ)
1922年(大正11年)12月21日、川崎造船所で竣工。当初名は第四駆逐艦。1928年8月1日、吳竹と改名。駆逐艦籍のまま太平洋戦争に参戦。1944年(昭和19年)12月30日、バシー海峡にて米潜水艦「レザーバック」の雷撃を受け戦没。

早苗(さなえ/さなへ)
1923年(大正12年)11月5日、浦賀船渠で竣工。当初名は第六駆逐艦。1928年8月1日、早苗と改名。駆逐艦籍のまま太平洋戦争に参戦。1943年(昭和18年)11月18日、セレベス海で米潜水艦「ブルーフィッシュ」の雷撃を受け戦没。

若竹(わかたけ)
1922年(大正11年)9月30日、川崎造船所で竣工。当初名は第二駆逐艦。1928年(昭和3年)8月1日、若竹と改名。駆逐艦籍のまま太平洋戦争に参戦。1944年(昭和19年)3月30日、パラオ大空襲の際にパラオ湾口にて航空機の攻撃により戦没。

早蕨(さわらび)
1924年(大正13年)7月24日、浦賀船渠で竣工。当初名は第八駆逐艦。1928年8月1日、早蕨と改名。昭和7年12月5日、台湾海峡で荒天により転覆沈没。

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15
藤(ふじ)
1921年5月31日竣工(藤永田造船所)- 1940年4月1日、哨戒艇に類別変更。第36号哨戒艇に改称。スラバヤで終戦。復員輸送中にインドネシア軍に奪取されたが後にオランダ軍が接収、解体された。

萩(はぎ)
1921年4月20日竣工(浦賀船渠)- 1940年4月1日、哨戒艇に類別変更。第33号哨戒艇に改称。1941年12月22日、ウェーキ島上陸作戦で擱座、放棄。1942年1月10日除籍。

蔦(つた)
1921年6月30日竣工(川崎造船所)- 1940年4月1日、哨戒艇に類別変更。第35号哨戒艇に改称。1942年9月2日、航空機の攻撃により戦没(ビコリア島北東)。

薄(すすき)
1921年5月25日竣工(石川島造船所)- 1940年4月1日、哨戒艇に類別変更。第34号哨戒艇に改称。1943年3月6日、カビエン南方で特務艦矢風と衝突し沈没。

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16
芙蓉(ふよう)
1923年3月16日、藤永田造船所で竣工。当初名は第十六駆逐艦。1928年8月1日、芙蓉と改名。駆逐艦籍のまま太平洋戦争に参戦、1943年12月20日、マニラ湾口で米潜水艦「パファー」の雷撃を受け戦没。

夕顔(ゆうがお/ゆふがほ)
1924年5月21日、石川島造船所で竣工。当初名は第十二駆逐艦。1928年8月1日、夕顔と改名。1940年4月1日、哨戒艇に類別変更し第46号哨戒艇に改称。パラオ、トラック方面の船団護衛に従事したが、1944年11月10日、石廊崎沖で米潜水艦「グリーンリング」の雷撃を受け戦没。

朝顔(あさがお/あさがほ)
1923年5月10日、石川島造船所で竣工。当初名は第十駆逐艦。1928年8月1日、朝顔と改名。駆逐艦籍のまま太平洋戦争に参戦、吳で終戦を迎える。が、7日後に関門海峡で触雷大破し浸水着底した。

刈萱(かるかや)
1923年8月20日、藤永田造船所で竣工。当初名は第十八駆逐艦。1928年8月1日、刈萱と改名。駆逐艦籍のまま太平洋戦争に参戦、昭和19年5月10日、ルソン沖で米潜水艦「コッド」の雷撃を受け戦没。

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26
栂(つが)
1920年7月20日竣工(石川島造船所)- 1945年1月15日、高雄にて航空機の攻撃により戦没。

柿(かき)
1920年8月1日竣工(浦賀船渠)- 1940年2月1日除籍。1940年10月15日、兵学校付属の練習艦。1945年2月23日、柿(橘型駆逐艦)との区別のため、大須(おおす)に改称。終戦直後の台風で座礁、解体。 

楡(にれ)
1920年3月31日竣工(吳海軍工廠)- 1940年2月1日除籍。1940年10月15日、航海学校付属の練習船。1944年12月17日、楡(橘型駆逐艦)との区別のため、第一泊浦(だいいちとまりうら)に改称。1945年7月11日、横須賀海兵団(横須賀突撃隊供用)所属の特攻母艦。戦後解体。

栗(くり)
1920年4月30日竣工(吳海軍工廠)- 掃海作業中の1945年10月8日釜山港で触雷沈没。1945年10月25日除籍。


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テストパイロット:一等飛行機操縦士森川勲の生涯


「昭和の御代」初めての大観艦式が横浜沖で挙行された。森川、天覧の栄に...... 



十月二十一日、連合艦隊は大島沖において、加藤寛治大将率いる第一、第二艦隊からなる青軍(防御軍)と、山本英輔中将率いる特設第三艦隊よりなる赤軍(攻撃軍)に分かれ、秋の大演習を行った。

三十日、「昭和の御代」初めての大観艦式が横浜沖で挙行された。

鮮やかな紅の地に金糸で菊の御紋章を縫い取った天皇旗を後檣高く掲げた陸奥から、森川操縦員、増田偵察員、松崎電信員の乗る一四式水上偵察機「ムツ一号機」が横浜沖の荒れた海原に降ろされた。

観艦式で失敗は、絶対に許されない。一四式水上偵察機は、機体に対して発動機の馬力が不足していた。森川(勲)は万が一を考え、整備を担当する機関兵と相談して、燃料、冷却水の量を最小限度に、無線機を取り外して極力機体を軽くした。

陸奥に座乗する天皇や皇族、連合艦隊司令長官加藤寛治大将、海軍大臣岡田啓介大将、軍令部長鈴木貫太郎大将など居並ぶ将官の見守る中、森川は吹きすさぶ北西の風をものともせずに一四式水上偵察機を鮮やかに離水させ、大空に舞い上がらせた。
森川、一代の晴れ舞台であった。

この大観艦式には、陸奥、長門以下百八十六隻の艨艟と百三十二機の海鷲が参加、延べ百万人にも上る国民が見守った。

お召艦の大役を無事務めた陸奥は、十一月三日の明治節を横須賀で迎えると、母港佐世保に向かった。

十二日、神戸港に入港した陸奥に、今度は小豆島の両親が京阪神にいる親戚を連れてたずねてきた。

海軍は、日曜日や祭日には乗組員の家族や友人などが軍艦の見学を兼ねて艦内まで面会に行くことを許可していた。軍艦開放の目的の一つには、船に乗っているためなかなか会うことの出来ない肉親との面会、それと国民の血税を使って建造した軍艦の偉容を披露するためであった。
 
陸奥の母港九州佐世保は小豆島から遠く、おいそれと面会に行くことは出来なかったが、神戸なら目と鼻の先、小豆島と阪神間を結ぶ大阪航路の寄港地であった。
出迎えた森川が、
「陸奥は三万二千七百二十トン、全長は二百十五メートルもあります」
「舳先の菊の御紋章は、小学生の背丈と同じ四尺あります」
「舳先の錨は二千二百貫です」
「乗組員は千三百人です」
「これが陸奥の四十センチ主砲です。弾は二百七十貫もありますが、富士山よりも高く飛んで七里半の向こうまで飛んで行きます。世界一の大砲です」
と説明するたびに、
「勲、陸奥いうたらごっつい(すごい)軍艦やのうーー」
両親は、目を丸くしながら、この言葉ばかりを繰り返した。
森川は、両親を後檣と第三砲塔との間に鎮座する一四式水上偵察機へと誘い、
「この飛行機は一四式水上偵察機といい、この前小豆島に乗って帰ったやつです」
自分の愛機を紹介した。
森川の両親は飛行機に乗っている息子が、なぜ陸奥という戦艦に乗っているのか、長い間わからなかったらしく、
「勲はそれで陸奥に乗っているのか、軍艦に飛行機をのう・・・」

森川の説明を聞いて初めて納得したという顔をして、一四式水上偵察機をしげしげと眺めた。

国内においては、わずか二ヶ月で三十二もの銀行が休業や倒産に追い込まれるという未曾有の金融恐慌が吹き荒れ、「大学は出たけれど」という言葉が人口に膾炙されるほど不況のどん底におちいっていた。国外に目を転じると、南京の日本領事館が中国国民革命軍に襲撃された南京事件。続いて、漢口の日本人租界で海軍陸戦隊と中国人が衝突した漢口事件の勃発。蒋介石が国民政府を樹立したのにともない、中国の居留民保護を目的とした第一次山東出兵。それを解決しようとした幣原喜重郎外相の「軟弱外交」など、内憂外患の昭和二年という年があわただしく暮れた。

昭和三年(1928)三月二十九日、有明湾を抜錨した長門、陸奥、扶桑の三戦艦は、第一水雷戦隊旗艦軽巡洋艦「天竜」麾下の第十三、十五、十六、二十六の四個駆逐隊合わせて十六隻を率い、親善のためにイギリス東洋艦隊の根拠地である香港に向かった。
 

日本海軍の主力艦が外国を親善目的で訪れるのは極めて異例であり、中国を除けば、陸奥、そして森川にとって初めての外国であった。
 

四月九日、まず軽巡天竜に率いられた駆逐隊が香港港外の狭水道を通り、その後を長門、陸奥、扶桑の順で通過、九龍半島と香港島の間に、連合艦隊司令長官の将旗を後檣にはためかせた長門、続いて陸奥、扶桑の三戦艦が姿をあらわすと、香港島の海軍工廠に接岸していたイギリス東洋艦隊(Eastern Fleet)旗艦「ホーキンズ」(Hawkins)と空母 「ハーミーズ」(Hermes競技神)から十七発の礼砲が殷々と撃ち鳴らされた。
 

三戦艦は答礼を行いながら、旗艦長門は香港島ヴィクトリア地区の沖合五百メートルのブイに繋留した。続いて陸奥が長門の右舷斜め後方のブイに、扶桑と天竜に率いられた駆逐隊は、海軍工廠沖に碇泊する空母ハーミーズ近くのブイに繋留した。
 

クレメンテ香港総督及びイギリス東洋艦隊は、歓迎レセプションやハッピーバレーの競馬場で日英対抗の運動会を盛大に催した。また、日本艦隊の乗組員のために、ヴィクトリア・ピーク、アバディーン、レパルス・ベイなどが開放され、市内電車や香港名物のケーブルカーは無料となった。
 

森川は、香港滞在中に標高五百五十一メートルのヴィクトリア・ピークに登り、展望台から壮麗な建物の建ち並ぶヴィクトリア地区、その沖合に天幕を張って碇泊する陸奥、長門の雄姿、対岸の九龍半島を心ゆくまで眺めた。
 

四月十三日、五日間の親善行事を無事にすませた日本艦隊は香港を出港、途中馬公に寄港、四月下旬横須賀に帰投した。


森川、陸奥とともに、青島、芝罘、旅順、大連、基隆、香港、馬公などを巡る

森川は、陸奥での二年間にわたる艦隊勤務において、日本各地の要港を初めとして、青島、芝罘、旅順、大連、基隆、香港、馬公などを巡り、瀬戸内海はもとより太平洋、日本海、東支那海などの外洋を飛び回るという、海軍航空隊のパイロットとして得難い体験を積み重ねた。

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軍事参議官、元帥陸軍大将大勲位功四級。軍事参議官、元帥陸軍大将大勲位功四級
久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年(明治6年)7月23日-1929年(昭和4年)1月27日)
1928年5月14日 - 台中不敬事件おこる。

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1928年聯合艦隊80多艘艦南訪,其中21艘去了香港(4月9日-13日)
第1戰隊:長門(旗艦)、陸奧、扶桑
第1水雷戰隊:天龍
‧第13驅逐隊:吳竹、早苗、若竹、早蕨(若竹型驅逐艦)
‧第15驅逐隊:藤、萩、蔦、薄(樅型驅逐艦)
 ‧第16驅逐隊:芙蓉、夕顔、朝顔、刈萱(若竹型驅逐艦)
 ‧第26驅逐隊:栂、楡、柿、栗(樅型驅逐艦) 給油艦:鶴見


而英方接待嘅有Eastern Fleet旗艦Hawkins及空母Hermes(競技神),現在嘗試整理事件,之後1928年5月14日發生「台中不敬事件」,日文維基百科稱久邇宮邦彥王無傷。韓國國際廣播電台稱久邇宮邦彥王被毒刀刺傷,並於次年去世。而久邇宮邦彥王也有來港(或許來港嘅係久邇宮邦彥王【軍事参議官、元帥陸軍大将大勲位功四級】之子久邇宮朝融王【海軍中将大勲位功四級】,華僑日報只說是久邇宮親王,兩個都係親王......)

另外發現一個現像,大部人也在不久後嘅1928年12月10日給换掉,如聯合艦隊司令長官加藤寛治、長門艦長松下薫、陸奧艦長堀悌吉、扶桑艦長市村久雄、天龍艦長菊野茂、藤艦長武田喜代吾etc,如此大規模換人好似不太尋常。

又是次「訪港圑」有不少「猛人」,如若竹艦長西村祥治(西村艦隊啊!)、栗艦長伊崎俊二(末代神通艦長)、第1水雷戰隊參謀崎山釋夫(末代三隈艦長)etc

常說1928年此行乃長門唯一一次外遊,然而有資料顯示1926年4月18日,「長門率艦隊抵基隆港,由於風雨太大以致第一艦隊司令長官岡田啓介大將(加藤寛治前任)無法上岸出席歡迎會」

上網打「日本海軍大事記」,一條似樣嘅資料也沒有


 

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