2014年1月24日 星期五

妖精さんたちの、ちきゅう

ひどい揺れでした。
何十年、あるいは何百年か昔までは舗装されていた道も、今は見る影もなく荒れ道になっており、左右から押し寄せる雑草や浮き出た血管のような根っこによって、いよいよ混沌の様相を呈しつつありました。
そんな道ではなくなろうとしている道を、トレーラーは無頓着に踏み潰して進んでいきます。
乗り心地は最悪の一言でした。
障害物を踏みしめるたびに、わずかな衝撃は増幅され荷台に、ひいてはそこに木箱と一緒に収まっているわたしにまで伝わってきます。
荷台での旅は優雅なものと決めてかかった自分の愚かさが恨めしい。
せっかく花が咲き乱れる街道を旅しているというのに、お尻の痛みがひどくては楽しむどころではありません。
気分的にはドナドナに近く。
「素直に助手席に座っていれば・・・いや」
つぶやいて、すぐに却下します。助手席に座るという事は、運転席に座っているキャラバン隊長さんと否応もない会話に晒されることを意味します。人見知りで焦ると空回りするわたしにとって、それは神経を削る時間になるはずです。
心とお尻、削れてうれしいのは後者でしょう。
とはいえ、流石にたまりかねるものがあり、運転席に向かって声をかけます。
深呼吸ひとつ挟んで、
「あとどのくらいでちゅきますか?」
どもってしまったのですが、相手も気付かなかったようなので特に言い直さずにおきます。知らない人と話すのはやっぱり苦手。
「三、四時間かね。お天道様が隠れちまわなけりゃね」
巌のような隊長さんは、振り向きもせずに答えます。
短く御礼を口にして、幌の上に傘のように張り出した無骨な太陽電池モジュールに思いを馳せます。
このトレーラーは燃料電池や太陽光などを併用する、いまや稼動しているだけでも貴重なハイブリットカーだと思われますが、常用しているエネルギー源は一種類だけなのかもです。
途端に不安になってきました。
無料で同席させてもらっている以上、文句など言える筋合いではないのですが。
時速8キロほどの速度で、巨体はのろのろと進んでいきます。
「あと四時間・・・」
運転席から鼻歌が聞こえ始めます。
うららかな日差しを浴びながら運転するのは気持ちよさそうです。
こちらはとうとうお尻の痛みに我慢できなくなり、腰を持ち上げるのですが、
「立たないほうがいい。それで落ちたやつもいるから。ちなみにそいつタイヤに巻き込まれてゆっくり死んだけども」
即、元の位置に座ります。
せめて気を紛らわせようと、路肩の向こうに自生している花々を眺めます。
視界の大半を占める黄色は菜の花。
油の材料になったり、漬物になったりと便利な植物です。デモ近くによるとアブラムシがびっしりついてたりして、昔のようにあの中に飛び込みたいとは思いません。乙女心は劣化するのです。ちょうど今、荷台の旅に辟易しているのと同様に。
でん部の疼痛を棚上げするように、ぼんやりと風景を眺めていると、花畑からちょこんと頭を出したものたちがいました。
目が合いました。
一秒くらいでしょうか?
逃げるように頭を引っ込めてしまいます。
「まあ」
彼ら、を見たのは、子供の頃以来になります。
あまりにも唐突で、一瞬の出来事でしたが、見間違えるはずもありません。
ひと目見たら忘れられない姿をしています。
しくしくと持続するお尻の痛みも忘れ、私は笑っていました。
「こんなところにも住んでるんだ」
生息可能なありとあらゆる地域に住んでいると目されながらも、めったに人前には姿を見せない彼らです。その不意の遭遇は、私の目に幸運の兆しのように映りました。
彼らとは友好的に付き合っていかねばなりません。
それは、学舎、最後の卒業生として、私が負うべき義務のようなものでした。
荷台のへりに寄りかかり、頬にゆるい風を受けながら、噛みしめるように思い返してみます。
卒業式は三日前のこと。
会場は老朽化した講堂。
そんな危険な場所で式を執り行うなんて、と思われるでしょうが、ご安心を。
老朽化が進みすぎて、崩落するような天井も、倒壊するような石壁もほとんど残っておりませんから。
式場に入ると、砂糖一粒見逃さず磨き上げられた床の上、十二の椅子がぽつんと寄り添う光景に出くわし、私たちはしばし立ち尽くしました。
胸元にさした生け花から立ちのぼるひんやりとした香りのせいで、花の奥がジンと痺れてきます。この生け花が萎れるまで。それがわたしたちに与えられた、学生としての最後の時間だと意識させられます。
卒業して故郷に帰るだけ。
そのことを私はごく軽く、淡々と受け止めていたつもりでした。ところが講堂に入るや否や、私の風景は突然霞がかったものへと変貌してしまったのです。
それは身を貫く予告でした。ことがそれだけではすまないことを告げる。
式には教授陣のほかに、多数の列挙者が見られました。
しかしその中に、卒業生の親族はほとんど見られません。私たちは学舎に通うために、遠い故郷をあとにして寮生活をしていたのです。
列挙者は学舎ゆかりの教育関係者がほとんどでした。
教授と列挙者のどちらもが、卒業生の数より多いのです。
前後からのプレッシャーに挟まれつつ、式典は始りました。
式の前、私たちは全員「泣かない」宣言を発しました。
大勢の来賓の前で泣くのは、いよいよ大人になろうという私たちには恥ずかしい行為に思われたのです。
卒業生は十二名しかいないのですから、式はすぐに済みそうなものでした。
ところが、教授陣は壇上にずらりと横並びに整列し、一人一人卒業生を壇上に立たせ、ことさらゆったりとした態度でコメントを交えながら、ごくていねいに、生演奏されるショパンの別れの曲に乗り、卒業証書の授与を行いました。
全員が泣かされました。ありえない。
コメントの概要はシンプルだったんです。
教授陣のレジュメがあったとするなら「その生徒との思い出を語って聞かせる」の一言で足りるくらい。
それ以外が、技巧の極みといえました。
語彙の選択が適度に卑怯で、多彩な修辞がさんざめき、表現の倒置は効果的に認識を揺さぶり、冷徹に写実したかと思えば、擬人化した花鳥風月にあらゆる叙情を演じさせ、センテンスの切れ目に浮かぶ静寂が饒舌に伝えるのもつかの間、木訥さを持って畳み掛ける祝辞の輪唱は気付けば韻文学の余韻をたたえ、それらは壇上に立つ卒業生の双眼が必要以上に潤むところで区切りよく軽やかに収斂していくのです。
どう考えても狙っています。
私は一分持たずに撃沈させられましたが、他の卒業生も似たり寄ったりでした。
人前で感情を見せることを極端に嫌がる友人Yでさえ、壇上から戻ってきたときにはメガネの奥で涙ぐんでいたほどです。
考えるに、さんざ苦労させられた生徒たちに対する、教授陣のひそかな仕返しでもあったのではないでしょうか。充分、ありえる線だと私には思えます。
かような公的いじめが終わると、私たち全員の手に染み一つない白く輝く卒業証書が収まっていました。
10年以上の時間をそこで過ごし、さまざまなことを学び、いろいろなことを体験したのは、この一枚の紙切れを貰うためでした。しかし証書の羽のような軽さと似て、なんとも呆気なく終わってしまったという印象です。
私たちは萎れた生け花を記念品としてもらった写真集に挟んで押し花にしました。写真も今では庶民のものではなくなっています。ぱらぱらとめくれば当時をいくらでも呼び起こせるというのに、このとき、早くも思い出は儚さを帯び始めています。
物寂しさは、そのまま行動で開催されたお別れ会で、はじけました。
語りきれないからこそ混沌なのであり、そのことに逆らう気もない記録者といたしましては、構成要素のみの記載にとどめさせていただきたいと思います。
それはおもに、以下のようなもので成り立っていました。


運ばれる見たこともないご馳走・床を転がる色とりどりのフルーツ・誰かのお手製らしき連想クラッカー・弾け飛ぶシャンパンのコルク・即興のピアノ演奏・声を張り上げて叫ぶ卒業生・なく卒業生・笑う卒業生・から回りしすぎてキャラが上滑りしてしまった恥ずかしい卒業生(私です)・10分ほどしてトイレから戻ってきた友人Yの赤く腫れた目じり・酒を酌み交わす年配のゲスト・左右から酒を注がれ休まず飲まされる男子卒業生・ジャズトランペットのかすれる音色・泣きながら私の手を取ってくるみ知らぬおばあさま・不ぞろいの合唱・老人たちも卒業生も一緒くたに流す涙・深夜十二時を告げて重なる長針と短針


学舎とは、人類最後の教育機関でした。
かつての大学、かつての文化協会、かつての民間団体、それらの統合機関として学舎が生まれたのは、もう百年以上も昔の話だそうです。
そういった教育機関の併合は、人口の加速度的な減少に伴い、世界各地で見られた光景でした。
人口が減れば子供も減ります。
生徒数が不足するようになりました。
そこで他の教育機関と併合し、学区や分野を拡大する、という流れが多発するようになりました。
あとは坂道です。
五十年前の段階ですでに、学校のある町に世界中から子供が集まって、寄宿舎暮らしをしながら教育を受けるのは当たり前の光景となっていました。
私たち十二名の卒業を持って、人類最後の教育機関といわれた学舎も閉校を迎えました。
これから教育とは、親から子に受け継がれるものに回帰していくのでしょう。
そして今、わたしは故郷への道程をお尻を炒めながら辿っています。
行く手に大きな影が立ちふさがりました。
くすのきの大木。この木には幼心にも焼きついていて、見覚えがありました。
里、と外界を分けている、目印のような木なのです。
繁茂する野草の中に、思い出したように民家の廃墟が点在するばかりのこの一帯では、ひときわ目立つ存在です。
里からくすのきまで、子供の足で約三時間の童貞。
里の子供たちは皆、遠出の目標としてこの木を目指したのです。
このトレーラーなら、上手くすればあとに時間といったところでしょうか。
荷物に背を預け、体から力を抜きました。
里では新しい暮しが待っています。
卒業と同時に里での就職を決めた私は、自ら進んでその過酷な道に身を投じることを決意しました。
学舎で十年間以上学び続けることで得た、文化人類学を始めとする様々な知識と技術を活用すべき時が来たのです。一人の学院の徒としてはまだまだ未熟な私です。その困難な童貞は若い力をいやおうもなく必要とするのであり、妥協も譲歩も諦念も怠惰も許さず、潔癖なまでの探究心がなければとうてい頂に手をかけることは望めないはずなのです。しかしわたしには、若き研究者としての自らを全うしたいという野望があります。若さもあります。実現するためのチャンスも手にしています。もはや邁進することだけが、私が選択する唯一の道だとさえ思えます。
でも楽に野望を実現できるに越したことはないんですけど。


横道に入ったとたん、伝わってくる振動がぴたりと止まります。
くすのきの里に入ったのでしょう。さすがに人の住んでいる土地は、地面がならされています。
「うーんー」
濡れタオルで目を覆い、木箱の隙間に無理やり寝ていた私は、揺れの程度だけでそれを悟りました。
かえって体力を浪費してしまったようで、身を起こす気力も目を開く余力もわいてきません。
手探りで荷台のへりを探し、腕の力を使って上体を起こします。
「うーーーーんーーーーー」
尺取虫のようにくねりながら、ようやくへりにすがりつく姿勢になると、そこで喘ぐように息を吐き出します。すでに揺れすぎて胃がひっくり返っており、すっぱいものが常にのど元までせり上がってきております。
懸垂の要領で顔を持ち上げ、アゴだけでへりに乗せて、ようやく目を開きました。
トレーラーはちょうど民家の合間を縫うようにして進んでいるところでした。
手を伸ばせば届く距離にもう民家の柵が見えます。里の住宅街を貫くメインストリートも、この巨体が通るにはいささか狭いようです。
ああ、いよいよ恋しい地面と再開するときが近づいている。
いくぶん気力を回復させ、視線をめぐらせて周辺を確かめました。
状態の良い民家が寄り添うようにして建っていて、後付されたブリキの煙突のいくつかが、もうもうと煙を吐き出しています。調理中なのでしょう。
人の入っている家は、大体ペンキで色鮮やかなパステル調に塗られているのですぐに分かります。いくら状態がよいとはいえ、築数百年という老朽物件も多く。塗装なしではとてもではありませんが、酸性雨に浸食された外壁は見られたものではないのです。
こうしたパステルハウスは今の時代、人々にとって原風景とも言うべき文化になっています。
眼前に広がる風景が、連鎖的に蘇生していく幼少の記憶と、面白いように一致していきます。
里で唯一、ピンク色に塗りたくられた民家。
絵本やゲーム目当てに通いつめていた公民館。
ふんわりとした乳白色の家は、お菓子作りが趣味のおばあさんが住んでいて、子供が材料を持っていくといろいろと作ってくれるのです。
丁寧な運転で進むトレーラーが向かう先は、広場です。
広場は建物のいくつかを潰して作った円形の更地です。そちらに目線を転じると、大勢の人がすでに待機しているのが見えました。
「わあ」
とたんに恥ずかしくなり、首を引っ込めます。
昔の知り合いと再会することに、異様な羞恥を感じていました。ただでさえ、大勢の前で話すのは大の苦手です。個別に、出来たら個別にご挨拶を済ませたい。しかしキャラバンは人々の注目を浴び続け、里の広場まで巨体を進めて停車してしまいます。
荷下ろしをするであろう後部ステップから見えない場所を求め、木箱と側面へりが作るスペースに身を滑らせます。この場所はグッド。体育ズワリをして頭を低めれば、私の姿は隠れるはず。ほとぼりが冷めるまで、ここにいることに決定です。
しかし世の中それほど甘くないようで。キュコキュコというクランクを回す金属音とともに、思わせぶりに側面へりが下がっていったのです。ちょうど視線を遮るために潜んでいた部分。物資を受け取るために集まっていた民衆の視線は、体育座りで登場した私にいっせいに突き刺さりました。
最前列で待っていたオジサンの口から、パイプがポロリと落下します。
このトレーラーは後方だけではなく側面も開くタイプのものだったようです。
見覚えがある顔の中年女性が、訝しげに唸ります。こちらが向こうを記憶しているように、向こうもこちらを
「あんた確か?」
私は膝頭に、静かに顔を伏せました。


広場で思うがままに恥をかいた私は、磨耗しきった心身を引きずるようにして自宅のドアに手をかけました。
「ただいま戻りました・・・おじいさん?」
薄暗い家の奥から、記憶と変わりない白衣姿の祖父が猟銃を手に出てきました。ずかずかと歩いてくる様子に老いは感じられず、内心ホッと安堵です。
「おお、やっと戻ったのか」
老人にしては大柄な祖父は、女としてはかなり高い位置にある私の頭に手を置きました。
「ふむ、縦方向にそだっとる」
「年月が経ちましたから」
ちなみにこの数年で、背丈はつくしのように伸びました。もうこれ以上はちょっと困るくらいに。
「血色も良し。人参は?」
「嫌いなままです」
祖父はふんと鼻を鳴らし、
「なんだ、中身は成長しとらんのか?」
「してるとおもいます・・・たぶん」
「ま、入りなさい。ちょうど食事にしようと思っていてな」
「え? これから狩りを?」
手にした猟銃を見て尋ねます。
「こんな遅くから行くわけがないだろう。これはちょっと改造して攻撃力を上げていただけだ」
祖父は銃が好きです。
「キャラバンに同乗して来たのかね?」
「はい」
トラブルについては語らずにおきます。
「ああ、それとおじいさん。聞いていると思いますけど、私もおじいさんと同じ調停官をすることになってですね・・・」
「上手いクレソンがあるぞ。フライにもパンにもよく合う」
成長を訴える私の声は、祖父の耳を無慈悲に通過していきました。


野菜と干し肉のスープ、揚げ魚、野菜、ピクルスといった各種の具材、それらを挟むための切れ目入り丸パンを入れたバスケットが、食卓に並んでいます。
全て祖父が用意したものです。
祖父は長年一人暮らしをしているので、料理は達者なのです。
丸焼きだとか燻製肉とかの大味な料理を楽しむのですが、時折、繊細な味わいのスプーを作ってくれます。ン年ぶりの懐かしい匂い。
ピクルス多めの、自分好みのサンドイッチをせっせと組み立てながら、対面に座った祖父と話します。
「そうか、学校制度もとうとう終わりか」
「ええ、お別れ会に関係者の方がたくさん来てくれて、ビックリしました」
「そんなもんだ。うちのところも畳む時は関係各位が集まって・・・なんだ、店を開く癖は直らずじまいか?」
私の前に組み立てたサンドイッチが五つ並んでいます。
「たべながらつくるのはおちつかないので・・・いけませんか?」
「いや、構わないがね」
こういうのを作り出すと、つい夢中になってしまうのです。
友人は内職癖、家族は開店癖、と呼ぶ、私の手癖です。
「そんな食えるのかね?」
「いえ、無理です。さすがに」
悪びれずに言います。
「あほ」
祖父の手が二つを強奪していきます。
「丈は伸びたが、相変わらず弱々しい生き物のままだな」
「文明人といってください」
「元だ、元。文明なんてもうほとんどのこっとらん」
「そういえば太陽光発電のトレーラーって初めて乗りました」
「あれな。速度も馬力もないし、壊れたらもう直せんだろうな」
「幸い、止まらずに戻ってこれました」
「キャラバンの連中はいい玩具をたくさん持ってる。お前もあっちに就職したら良かったんだ。楽しそうだ」
「あ、いえ、肉体運動は無理ですし」
祖父は思い出したように表情を改めます。
「本当にうちで働くのかね? 別に無理に継がなくてもいい仕事だが」
「そのつもりです。せっかく学位まで取ったわけですし、事務所だって維持してるじゃないですか。そういう、公式に認められた居場所があるのはいいと思うんですよ」
「物好きな奴だな。よりによって調停官とは」
「私むきの仕事だと思うんですよ」
「ほう、理由は?」
「畑仕事より楽かなーと」
久方ぶりの団欒に、ついつい本音が炸裂しました。
「そんな理由でか・・・・?」
さすがに祖父があきれた声で言います。
きりりとして目線を向けて朗々と告げてやります。
「私の体が弱いことはおじいさんもご存知でしょう?」
「いや、お前は今楽をしたいからといったぞ」
言いましたっけ?
「いや、こんな時代ですから、能楽や畜産の実習が基礎教育課程に含まれるわけですが・・・あれは大変つろうございました。そこにいくと、調停間は老人にもまっとうできる仕事なわけですから肉体的にはなんら問題なかろうと」
肉親相手だと全く緊張しないで話せます。
「孫娘が変な性格になって戻ってきた」
「んま」
「大体お前は体が弱いのではなく、単に気力に乏しいだけだ」
「はあ」
「楽ばかりしてると、年を取ってから踏ん張りがきかなくなるぞ」
「はあ」
「まあひと月も過ぎてそう思っていられるなら大物だな」
「きつい仕事なんでしょうか?」
もちろん調停間の資格を取る際、私はこれらの仕事について下調べを行いました。結果として、自活するための農作業その他の労働に比べ、とても楽な内容であることを突き止めたのですが、実態は違ったりするのでしょうか?
そんな疑問に、祖父は一言で応じます。
「人による」
首を傾げます。はて、そんな過酷な労働項目があったでしょうか?
「まあ一度、彼ら、に振り回されてみるんだな、だめ孫よ」
「ひどいおっしゃりよう」
「まあとりあえずだ。明日は事務所まできなさい。お前のための場所を作らんとな」
そういうことになりました。
十ン年ぶりの朝を迎えると、すでに八時。
「いけない!」
惰眠もいいところです。旅の疲れが蓄積していたに違いありません。というか、疲れないはずがないのです、ええい。
慌てて部屋を飛び出し、キッチンの様子を窺います。
祖父が朝食をとっていました。
「なんだ、騒々しい」
「あ、おはよう、ございます・・・」
「うむ、おはよう」
と食事を続けます。平然と。
これはおかしい。異なことでした。私は言葉を失い、何かの間違いが発見されるのではないかといった不安とともに、しばし立ち尽くしました。
「なにしとる」
「え、だって」
早くに両親を亡くした私は、幼い頃から祖父と暮らしてきました。祖父の教育方針はスパルタ式。寝坊して朝食に遅れようものなら、いつも脳天に拳骨が落ちてきたものです。それがないとはどういうことでしょうか?忘れてしまったのでしょうか?午後六時という門限を破っても、言いつけられた家事を一つ忘れても、欠かさず拳をもらいました。忘れるだ゙なんて事が、あるのかどうか。
「私はそろそろ出るぞ。お前はどうするんだ? 今日は事務所に顔出しをするのではなかったのか?」
「あ、はい、そのつもりです」
私の席には、すでに食事が用意されていました。この風景も久方ぶりです。ありがたくいただくことにします。
「で、どうするね? 一緒に出るのか。それとも今日は休むか?」
「や、休んでしまっても良いのでしょうか?」
それはスパルタでは許されないことなのでは?
当然といった顔で、こう返されます。
「別に昨日の今日であわてて働かずとも良いだろう。意志が弱いことは昨夜聞いたしな。顔色も良くない。まあ荷台に座って長時間揺られてくれば、体調が崩れるのも当然だ。聞けばお前は三角に座ったまままるで荷物のように微動だにしなかったそうだが」
いやーん、と叫びたくなります。
流石は交易ルートの端っこに位置するド田舎、くすのきの里。個人が気軽に使える通信機器もない時代というのに、情報はアナログ方式(風の噂)の分際で一瞬で伝播してしまったのです。
「たたた体調はへへへ平気なんですが」 ここで動揺を鎮圧し 「病弱なんですよ、深窓で薄幸で失意の令嬢なんです。だから今日は重役出勤をします」
言い切ってやりましたよ。
いけない、かわいそうな人を見る目で見られていている。
「な、何か問題でも?」
「いや、シンソウでハッコウのゴレイジョウのために、窓際で落ち葉でも数える仕事があるといいんだが」
「ありませんか」
「探しておこう」
「でも、サナトイウム文学みたいでいいでしょう?」
「確かに外見だけなら、そんな感じがないこともないな」
私はまさに、そういう外見をしております。
人見知りする正確が更なる拍車をかけ、私という存在は、寡黙で清楚な御令嬢、なるニッチを完全で埋めてしまったほどです。今時の子供は割りとたくましいですから、私が得た生態的地位は不動のものでした。
もっとも親しくなると流石に本性はばれてしまうようで、辛らつな友人Yなどは臆面もなく「歩く詐欺」という評価を私に下したものです。
「まあ構わないがな」お茶を飲み干しながら祖父が言います。「私はもう出る。お前は後から、来ることができそうだったきなさい」
「はい、じゃあそうします」
「場所はまだ覚えているな?」
「ええと、あのホットケーキのような形の建物ですよね?」
「そうだ。今日は昼間ではそこにいるから、来る気があるのならそれまでにくるといい。食器は水につけておいてくれ」
さっと白衣を引っ掛け、さっさと出て行ってしまいます。
取り残されたような私は、ポカンと呆気にとられてしまいました。
結局、寝坊の体罰はありませんでした。
幼少期、無償必罰(功績は一切誉めず、罪悪は必ず罰するあしき教育方針)の精神で飼育されてきた私としては、なんとも落ち着かないものがあります。
実に容赦のない祖父でした。
それがどうでしょう、このゆるさと来たら
決して体罰を受けたいわけではないのですが。
なんともスッキリしない気分のまま、朝食を終えます。
「さて、どうしましょうか」
あわてて出所するのも躊躇われます。胸元のもやもやを飲み込んでしまえるまで、なんとなくワンクッションを起きたい気分。
とりあえず張った水に食器をつけて、狭い家の中を探検してみることにしました。
懐かしい我が家。
同じようでいて、壁のしみや装飾など、細かく記憶と違ってきている我が家。
過去と現在を照らし合わせる、楽しいひととき。
あぜ道を縫って歩くこと十五分。
この円形闘技場めいた形をした大きな建物は、くすのき総合文化センターです。
国連調停理事会という組織に所属する祖父は、このホットケーキを何枚も重ねたように見える建物で、趣味や趣味や趣味や執務に取り組んでいます。三・三・三・一くらいの配分で。
遠い異国にあるコロセウム同様、上部が一部倒壊してかけておりますが、お気になさらず。
これでも痛みの少ないということで手ごろに再利用されている、レアな大型建築物なのです。
文化センターというのは建物に元からあった正式名称ですね。
きっと地域住民に対し、文化を啓蒙する目的で使用されていたに違いなく。
その広さと部屋数の多さから、今では事務所棟として利用されております。大学のラボやら研究施設やら事業所やら宗教法人やら倉庫やらなんやらかんやら。実に様々な用途に利用されてまいりました。と申しましても、すし詰めになっていたのも五十年以上前のことだそうですが。
現在はほとんどが空き部屋か、代表者がいなくなってそのまま放置された状態で、この辺りの子供にとって良い遊び場となっていました。
「お邪魔しまあす」
ガラスもとうになくなり、すでに貧しげな板張りとなっているドアを開けて中に入ります。
薄暗いホールには全体的に乾いた汚れが張り付いているばかりか、なぜか靴が片方だけ転がっていて、いかにも閑散とした印象を受けます。
当然、受付も無人ですね。
竹とんぼの残像のような螺旋階段を上り、祖父のいる三階事務所を目指します。
国連とは申しますが、私が来るまで地域職員となると祖父一人だけでした。
もし祖父に何かあれば、国連の担当者は不在になってしまうところだったのです。昨今そんな経緯で閉鎖される施設はあとを絶ちません。
さすが衰退期。
なかなか細かいところまで手が回らず、いい加減です。
「あ、ここ」
国連調停理事会、とふだのかかった部屋を見つけてノックしました。
反応がありません。
「ごめんくださーい」
もう一度だけノックしてみますが、応答もなく。
どうやら人の気配そのものがないようです。
ため息をつき、そっとノブを回しました。悪いことをしているわけではないのに、少しドキドキします。
「おじいさん? って、うわあ」
入ってみてビックリ。
壁の一面に、様々な銃が飾られていました。
あからさまに私物です。
それに気のせいか、火薬のにおいが部屋全体に染み付いているような気がします。さすがに、まさかそこまでは、ねえ?どうなんでしょうか?
その豪気に物騒な備品郡を除けば、とりあえずは全うな事務室です。
リノリウムが剥がれた濃い灰色の床、適当に配置された事務机三つ、片隅にあるパーティションで区切られた小さなスペースには応接用のソファセット一式。
使用感のある机は一つだけで、これはおそらく祖父が用いているものでしょう。書類が堆く積まれ、カップやらペン立てやらメモやらがカオスな具合に散らばっているのでわかります。
もう一つの机もよくみたらし洋館があります。こちらは妙にこざっぱりとしていて、卓上には数冊の文庫本とペンくらいしかなく、誰かが使って入るのでしょうけどまともに仕事をしている様子はなさそうでした。あるいは祖父が、この二つを一人で独占しているのかもしれません。
残る一つはまっさら。使用した痕跡のない机。
まあ、私の領土なのでしょう。
「すごいほこり・・・」
初日の仕事は机の掃除になりそうです。
それでも農作業に比べればずっと楽な仕事なのですから、文句など何一つございませんです、はい。
ちなみに応接スペースのソファセットは、夜間の主要な光源であるオイルランプ置き場となっており、あからさまに来客のなさを示しております。
とりあえずイスに腰掛けて、途方にくれてみたいります。
「さ、どうしようかな、ふうむ」
よく見ると事務所の奥に、隣接する部屋へのドアがあります。気付いた瞬間、ドアが開いて祖父が出てきました。
「お、来たか」
「どうも」
「今座ってるそれ、お前の席な」
と予想通りにアゴで示します。
「はい、いただきます」
「任官おめでとう」
にっと笑って、祖父は言いました。
「は、ありがとうございます」
「茶でも淹れてやろう。ああ、ここの水道は使えるときがあるが、屋上の雨水プールからのもので飲めないからな。自分の呑む分だけ真水持参がここのルールだ」
「ルールといってもおじいさん一人だけですよね」
「お前を入れたら三人だ」
と言い残し、元いた部屋に戻ります。どうやら無効が給湯室の模様。
「ほれ」
「いただきます」戻ってきた祖父から茶を受け取り、「ふたり、では?」
「ん?奥月から知らされていないのか?
奥月さんというのは、国連の職員さんです。
学舎のOGで、私の進路相談に乗ってくれた方です。残念ながら手紙のやり取りがあるだけで、面識はありません。
「何をです?」
「助手だ」
「え、私新任なのにいきなり助手がつくのですか?」
「あほか。私の助手だ」
「あー」
割と衝撃的なご発言。
「いましたかー、第三者」
計画の狂いとしては、最大限の部類でした。
「知っているものだとばかり思ってたが、お前まだあれか、あがり症もちか?」
「あがり症というわけではないんですが、ええと、お尋ねします。その助手の方は年配のご婦人とかですよね?」
「いや、若い男だ」
「あー・・・」
憂鬱の原液をどばどばと注がれて、声のトーンが落ちていきます。
「学舎は共学だっただろうが。何をそんなに怯える」
「この超少子化社会ですよ。その最後の学級だったんですから。年が近い異性などおりませんでした。一番近くて四つ下、まあそのこたちともなじむのに数年かけましたけど」
「安心しろ。寡黙で人畜無害な奴だ」
「いや、そういう心配ともいささかベクトルが違っておりましてね?」
「どうしても難しいなら別室を使うかね?」
とあちら側を指差します。
「手狭だが、一人過ごすくらいのスペースはあるが」
「いや、そこまで特別扱いされるのも、ちょっと」
「気難しい孫だな。そこまで苦手か?」
「やーそのー、苦手というわけではないんですが、ちょっと不得手で」はあ、と体内の空気を入れ替え、頬を軽くたたいて見ました。「わかりました、これも気楽な事務家業の対価ということで、職場でも深窓の御令嬢戦略を維持していきます」
「その戦略にはどういう意味があるんだね?」
「無口な人として認識されるので、あまり話しかけられなくなります」
「つまらん人生だ」
「ほっといてください。で、その方は、今はいらっしゃらないようですが?」
「ああ、キャラバンと一緒に医者が来てただろう?検査にいっている」
「お体が悪くていらっしゃる?」
「そうだな。あれこそ本当の病弱というものだ。病院に火を入れる関係で、しばらくこの辺りは節電だぞ」
いまや電気は諸方に平等にいきわたるものではないのです。
「検査入院という形になるそうだから、しばらく戻っては来ない。今の内に巣作りを済ませて、精神的な安息の地でも作っておくんだな」
「人を小動物か鳥類のように・・・」
「ほう。なら机の位置はそこでいいのか?お前と彼の机は向かい合っているから、そのままだと毎日対面することになるぞ」
ノー。あわてて居心地の良い机の位置を模索し始めます。
理想は誰からの視線も届かず、こちらから一方的に監視できるポジションです。がくしゃではせの高さからいつだって最後列で気が楽だったのですが。
ああ、あそこ、いいなあ。
応接スペースを見ながらしみじみ思います。
「おじいさん、あの仕切りの内側」
「そこはだめだ。応接室だ。たまに客がきたりもするんだ」
「だってランプ置き場になってるじゃないですか」
「客が来たらランプをどかせばいい。とにかく応接室はいかん。寂れた事務所には、ああいった立て板で仕切られた狭い応接室があるほうが雰囲気が出るんだ」
「また変な理屈を」
祖父は趣味の人です。
「そうだな。書類やらなにやらは、私から引き継ぐまでお前にやってもらうことはないからな。今日はゆっくり巣作り場所について考えるといい」
「はい」
「もしその気があるのだったら、今の内に彼らに新任の挨拶に言ってみるか?」
「あ、それはしないといけないのですよね?」
「いや、せんでもいい」
私は目を丸くします。
「なぜです?」
「その辺りは担当者の裁量次第だからな。必要ないとお前が判断するのなら、それでいい。自由だ」
自由!
でもそれって、職務的に問題ありなのでは?
そんな疑問を察知したのか予測していたのか、よどみなく祖父は言葉を継ぎます。
「この仕事はやろうと思えばいろいろ動けないこともないが、原則としては単なる書類の管理人でしかないのだ」
「それでは調停のおしごとはどうするんです?」
「彼らのことは彼らのことなのだ。こちらでしなければならないことなど、実際はほとんどない。この部署ができたころはまだいろいろと問題もあったらしいが、今では調停間などお飾りみたいなものだ」
「はあ」
炭酸の抜けたソーダのような言葉を、私はぼんやりと受け止めます。
「良かったな。お前の好きな楽な仕事で」
「何だか誤解があるようですが、私は自らの体力を考慮して、適切なジョブをチョイスしたいだけなのです。農作業は力仕事もあったり日射に晒されたり虫が苦手だったりしていろいろいやなので避けたいだけです」
「どう聞いてもぐうたら者の言葉だ。まあ、確かに農作業が退屈なのは同感だ」
「そうでしょうそうでしょう?」
祖父は道楽の人ですから。
「食料はハントするに限る」
狩猟採集民族でもあります。
「私はただの消費者が良いです」
「お前のようなものが文明を食いつぶした」
非難されました。
「他に食べるすべがなかったら、流石に私でも種くらい蒔きますよ。でもこういうありがたい仕事がまだ残っているわけですから」
「その通りではあるが、ふむ」祖父は不精ひげをシワシワと楽しげに撫でます。「前言撤回だ。やはり少し苦労したほうが良かろう若者よ。新任の挨拶に行きなさい。所長命令」
「そうですね、挨拶は必要なことでしょうから」
第三者がいることも判明した今となっては、事務所はそれなりに緊迫感ある場所です。多少のフィールドワークも辞さないモチベーションになっていました。
「それで彼らの里はどの辺りにあるんでしょう?」
「ああ、そこだ」
壁にこの辺りの地図が貼り付けられていました。
近寄って、細かく地形を指でなぞります。里の位置が赤枠で囲われていて、危険地帯が明示されていて、そして三角帽子マークのシールが一箇所にだけ張られています。
「あれ、これって?」
「そこが彼らの里ということになっているが」
よく確認します。
「これ、場所が間違っていませんか?里に戻る途中、街道沿いで一人目撃しましたけど、このシールとは随分違う位置だったような」
そういうと、祖父はうーんと唸ります。
「どう説明していいのかわからんな。とりあえず、行ってみたらどうだ?ここからだと三十分くらいだ。少し坂が続くからいい運動になる」
「わかりました、いってみます」
「ほれ、弁当」
祖父のおやつでしょうか。白衣のポケットからじかに取り出した、いくつかの丸パンを渡されます。せめて包んで欲しかった。
「持っていく書類とかは・・・挨拶に必要な、その調印書とか?」
「いらんだろう、そんなもの。調印書って、何する気だ?ちょっといってみて、もし会えたら挨拶の一つもしてくればいい」
「もし会えたら?」
「個体数はそれなりにいるはずだからな。上手くすれば接触できるはずだ」
「なんだかわかりませんけど、チャレンジしてみます」
「ほれ、水」
ビンに入った飲み水を渡されます。
「挨拶の礼儀とか、注意しないといけないこととかはないんでしょうか?」
「ないぞ。センスで乗り切れ」
「すでにこの段階で、在学中に下調べした業務内容とはだいぶ異なってます」
「お前の当った資料は察するところ発足当時の状況下で作られた対応マニュアルの類だな。当時は難しい時期もあったからデリケートな判断が求められたが、今となっては全てが過去の遺物だ。まあいってみろ。何事もEXP(経験値)だ」
「ナンデスかその胡乱な単語は」



小高い丘へ続く勾配を歩いていってたどり着いたのが、三角帽子マークで示された彼らの里。
里になる前、そのもっと昔には、資源回収業者が集積地として用いていた土地だったりします。
その回収資源、つまり粗大ごみは、業者がいなくなったあともここに置き去りにされたままになっています。独特の偉容を誇る超巨大オブジェとなって。
「高い」
扉のない冷蔵庫・真ん中辺りで見事にかち割れた洗濯機・破れたスピーカー・つまみが洗いざらい引っこ抜かれたアンプ・はぜたタイヤ・弦の切れたギター・電子レンジのギトギト油和え・きっちり折りたたまれた折りたたみ式じゃない自転車。
そんなものが、私の数倍ほどの高さまで積み上げられております。
今となっては再利用するすべもないものばかりですし、さびや劣化や技術の衰退で資源としての再利用もできないため、長らく放置されているのです。
そのゴミ山を囲むフェンスはまだ倒れずに残っており、敷地内の扉はチェーンで固定されていました。
先に進むには扉を開かねばなりませんが、当然鍵などは所持しておりません。
当然、私は鉄鎖を引きちぎるような超常的な力とは無縁のうら若き乙女ですから、今日はこのまま引き返すしかないのですが・・・、
「えい」
引っ張ったら割りと簡単に引きちぎれました。
念のために補則しておきますが、鎖がさびていたのです。
ということで、フィールドワーク続行です。
どうせ管理者もおりませんから、無断で施設に入ったり破壊したりすることには、問題ないのです。完全に打ち捨てられた場所です。
まず気になるごみ山に、少しだけ接近してみます。
崩れる危険があるので近くにはいきません。巻き込まれたらまず助からないでしょう。しかしそれでも、彼らが好むのは、こういう場所なのです。何かしら童心を刺激するものがあるのかもしれません。悪戯好きな男の子がいかにも好みそうなスポット。
あてもなく周辺を歩き回ってみます。
管理ビルがあった場所を見つけました。年月と雨風によるものか、すでに建物は土台だけとなっている状態です。
「もりもーし?」
あたりをつけて声をかけてみますが、反応はありません。
三角帽子によって示されていた場所で間違いないはずなのですが、彼らが隠れている気配さえ感じられません。
もしかすると平べったい石の下に潜んでいるかもしれません。持ち上げて確かめてみても、球形に変形したりはさみを装備していたりする虫たちがいるだけです。
「失敬」
そっと医師を元に戻します。
その後、大回りにぐるりとゴミ山を一周してみましたが、新たな発見はなし。
「だれかいませんかー?」
反応もなし。どうやら完全に無人のようです。新任の挨拶に来たものの、調停対象がいないのですから、どうしようもありません。
今のわたしにできること、それは。
「いただきます」
おもむろにポケットから取り出した丸パンを加えることだけでした。
事務所に戻り、窓辺の席から遠法の民家を銃で狙う遊びに興じていた祖父に報告を行ないます。
「無人のゴミ山があったので、そこでパンを食べて水をのんできました」
「うまかったかね?」
「いたって普通のパンと水の味でした」
「まあそうだろうな」
「全く何の経験にもなりませんでしたよ」
「のんびり散歩を楽しんだと思えばいい」
「おじいさん、アソコが無人だということをご存知でしたね?」
「ああ。あのゴミ山には何もない」
ため息をつきます。
「徒労もいいところでした」
「根性のない孫に運動をさせてやろうという祖父の計らいがわからんのか」
「運動は嫌いです」
祖父が片手で目を覆います。あきれているようです。これは一発くるかなと思いきや、
「もういい」
あっさりするー。
内心拍子抜けしながら、私の出した結論を確認してみます。
「要するに、あの三角帽子シールが張ってあった場所には何もない、ただの嘘だと?」
「というわけでもない。彼らは人の息吹が残る場所を好む。潜在的にはこの土地には相当数の彼らが暮らしているはずだ」
むむむと唸ります。
「おじいさん、調停間の仕事には彼らの状況を把握して記録するという項目があるんですが」
「うむ、あるな」
「一箇所に集まってくれないのでは、把握も記録もありませんよ?」
「そこは皆、苦労してきたところだろうな」とコーヒーをスする祖父。「私もいろいろと工夫を強いられた」
「なら、そのノウハウを教えてください」
「無理だな」
「職場いじめですか?」
彼らは生来、隠遁に長じた存在です。
ですから単独で暮らしている野生化した彼らを、風向きを読むことも気配を殺すこともできない人間が観察するのはとても難しいのです。
「自分で創意工夫を重ねなければ、いつになっても仕事は引きつげんだろう?お前にやる気があるのなら、いい訓練だと思うが」
「やる気はぼちぼちありますけど、先人の知恵があるのなら利用したいんですが」
「それを考えるのも仕事だ」
なんだかちょと腹が立ってきました。意地でも何か聞き出したい。
「しかしながら私は新人なわけですし、おじいさんが手本を示してください」
「いや、私には私でやることがある。助手もそのために雇ったのだ」
「上司が仕事多いのは当然でしょう。この分野では私はまだ未熟者なんですから、技術と経験を効率よく吸収して、さっさと知の高速道路に乗って一人前になりたいですし、さっさと知の高速道路に乗って一人前になりたいんです」
「二度いっている、同じ事を」
祖父は少しうろたえていました。ちょっぴり買った気分。
「無駄が嫌いといいますが」
「わかった、お前の意見はもう。疲れる」
流石に年の功なのか、祖父はすぐに立ち直ります。
「簡単にいえば教えるようなことは何もない。私はこの仕事を最初からやっていたわけではないんでな。お前がほしがるようなノウハウなどはほとんどないし、目立った活動に関わっていないんだ」
「天下りしましたか」
「そうだ」
悪びれもせずに認めてしまいます。
「天下りといっても、私の場合、研究所が閉鎖された結果だ。どうせこの土地にとどまるのなら、肩書き上だけでも調停間を引き受けてくれといわれて、それでだ。調停活動における目立った功績などもない」
「肩書きだけ」
「そう肩肘張る必要もない仕事だ。これからお前に言うべきことではないんだろうが。彼らに我々からの指導など必要ないと私は思ってる」
「でも、いざという時に」
「何を持っていざとするかだな。こちらから干渉しなければ、彼らはめったに姿を見せない。接触がなければ摩擦もない。とんちか哲学のようだが、何もしないことが最善の調停活動と言うことになしはしないかなと」
「それって、調停間という仕事の存在意義が」
「見当たらんのだよなあ」
「うう」
イスに座ったまま後方に卒倒してしまいたいくらいの衝撃。
それは確かに楽で知的な仕事を望んではおりました。しかし無意味な仕事がしたかったのかと問われれば答えは全く持ってノーであり、要するに私は効率よく人生の充実が欲しかったのです。
「調停間は要職だと思っていたのに」
「百年とか二百年前だったらそうだろうな」
「ぐ」
「だいたい通貨制度が崩壊し現物支給となっているご時勢に、要職も何もなかろう。こんなものはあれだ、お手伝い感覚というか、歴史的に重要だったセクションだから希望者がいるなら名ばかりでも職員を置こうという、そんな惰性によるもので、ほれ、お前の初任給、配給札がもう私の手元には届いてるぞ」
薄い封筒をペラリと卓上に放り出します。
「げ、月末なのでは?」
「月末だと配給場所であるはずのキャラバンが戻ってしまうだろう。先越しだ」
「な、なんかありがたみがないですよね?」
「最初からない、そんなもの」
心にダメージを受けて、私は言葉を失いました。そんな傷心の孫に対する祖父の夢も希望もない言葉が、更なる精神的虐待となって襲い掛かります。
「調停感としての仕事はだから、全部お前に引き渡すぞ。やり方はわからんが、まあ適当にやれ。あれだ。勤労意欲があるなら、たまに報告書とか提出するといいんじゃないのか?」
事実上の引退宣言を含む、無責任な発言の合わせ技に思えました。
「ちょっとおじいさん、流石にそれはないでしょう。上司なんですから、せめて、って、話の最中に銃をいじるのやめてくれませんか?」
「来週は待ちに待った狩りだ」
磨き上げられたライフルの筒先を窓の外に突き出し、スコープを覗き込みます。
「天下りの弊害が」
「これが楽しみで生きているんだ。老人のほの暗い楽しみにけちをつけるような無粋はやめて欲しいもんだな」
「ほの暗いって自分で言いますか」
祖父の決意は固いようです。
「あの、でしたら一刻も早く引き継げるよう、コツくらいは伝授して欲しいんですけど」
「といってもだな。私はごく僅かな期間しかまじめには活動していなかったので、ふむぅ、そうだな。いや、待て」
立ち上がり、事務所においてあるキャビネットの一つに腕を突っ込むと、片っ端からファイルを確かめていきます。
騒々しく書類をあさり、一冊の分厚いファイルを遂に見つけ出しました。
「あったぞ、この辺りから見ていけ。先任者の記録だ。私の前任者だった人のものだが。ちょうど三十年位前のものか?」
「まあ、そんなヒントブックが?」
「ヒントになるといいがな」
受け取り、ぱらぱらと中身に目を通します。
報告書にまとめる前段階と思われる、日報形式の記録でした。
そこに記されていたのは、彼らと良好な関係を築かんとする若き調停間の奮闘の記録に他ならないに違いないのです(願望まじり)。
必要に応じてイラストをまじえ、彼らとの日々が綴られています。
「これは参考になりそうですねぇ、ちなみにその方は?」
「なんか、死んだ」
万物は生滅流転していきます。
「なんだったかな、影の薄い人だったからな。死因が確か、思い打線」
しばらく悩んでいたようでしたが、やがて「ちょっと出かけてくる」と言い残し、白衣のまま外にいってしまいます。
一人になった私は、とりあえず手元のファイルに目を落としました。

まる月ばつ日
今日から私も調停かんだ。
いまや形骸化したこの役職だが、若い力でできることはまだあるはず。
頑張りたい。
里への挨拶も済ませた。
それなりに苦労はしたが、前任者からコツを聴いていたおかげで上手くやれたと思う。
良い関係を築いていけたらよいのだが。

まる月ばつ日
何日か通い詰め、だいぶ受け入れてもらえたようだ。
早くも彼らの技術を目にする機会を得られた。
噂には聞いていたが、これほどとは。
この役職がいかに大切なものか、よく理解できる。なぜ組織がここまで縮小されているのか理解できない。
カメラでもあればよかったのだが。
代わりにスケッチを残しておく。
(街灯箇所欠落)

まる月ばつ日
今日は宴を設けてもらった。
素晴らしい歓待。
極上のご馳走。
酒に肉、そして魚。山海の珍味。木の実を使った多彩な料理。
実に満ち足りた時を過ごすことができた。

まる月ばつ日
今日もすごい歓迎を受けた。
ご馳走には何を材料としているのかわからないものが多い。
そもそも、魚はともかく肉をどうやって調達しているのだろう?
彼らが狩猟をしているという話はきいたことがない。
要調査項目と死体。

まる月ばつ日
顔を見せるたびに熱烈な歓迎を受ける。
これでは調査が進まない、というのはうれしい悲鳴だろうか。
内政干渉は避けるべきだが、しかるべき資料は残したい。

まる月ばつ日
調査はかどらず。
変わらず。今日もご馳走だ。

まる月ばつ日
ああ、素材不明のご馳走が今日も。
どれも我々の食文化を再現した料理ばかりだ。
ビフテキというものを始めて食した。
今ではめったに口にできるものではない。
肉の果実とも言うべき、忘れられぬ味。

まる月ばつ日
今日は特に豪勢だった。
次から次へと珍味が出てきた。
おぼれるような料理だ。
確か中国の古い宮廷料理だったはず。
調査も進めたいが、何、時間はたっぷりある。焦ることはない。

まる月ばつ日
愛されている自分を感じる。
彼らが出してくれるスペシャルコースに舌鼓を打つばかり。
それ以外に何が必要だというのだろう?
かつて世界には豊潤な味が溢れていたのだと実感する。
酒も種々様々なものが出される。毎日が利き酒だ。

まる月ばつ日
本日はスシ。
これも数えるほどしか口にしたことはないが、実にうまい。
そしてかに汁は最強だ。

まる月ばつ日
今日はトルコ料理だ。
豆とナスは苦手だったが、こんなにも上手いものだったとは。
揚げ物をつまみながら飲む、ラクという乳白色の地酒がこれまた。

まる月ばつ日
パンがなければケーキを食べればいいのだ。

まる月ばつ日
今日もビフテキに継ぐビフテキ。
酒に継ぐ酒。
ビフテキ、酒、ビフテキ、酒、ビフテキ、酒・・・

まる月ばつ日
ビフ・・・酒・・・

無言でファイルを閉じます。
いい塩梅に窓が全開なので、そこから大空に向かってポーンと投げ捨ててやれば、さぞや心地よいことでしょうね。
貴重な資料?これが?
これは立派に醜聞の範疇です。
「どうだったね?」
祖父が戻ってきました。
「ビフ酒でした」
「そうだ。いいぞ。その認識であってる」
あってるというか。
最後のほうなど単なる突撃私の晩御飯でしかない。
「そうじき、全く参考にならないと思います、これは」
「仕事はこのくらいでいいのだという意味で、参考になったはずだ」
「あの、気になったんですが前任者の方の死因って?」
「思い出した。肝硬変だった」
そうですか。やっぱりですか。
「贅沢な死に方をしましたね、こんな時代に」
「おかげで暴飲暴食には注意する気持ちになれたろう」
「私はもともと小食ですから」
頭を抱えたくなります。
「で、ファイルはこれしかないんですか?」
「まあその引き出しにあるものを一通り当ってみたらどうだ?中にはつかえるものがあるかも試練」
「ああ、このぼうだいな、これを・・・」
キャビネットは業務用の大型で、それが壁の一面をほぼ埋めつくしています。全部に資料がつまっているのだとしたら、読破するのにどれだけの時間がかかることやら。
ここでふと考え込んでしまいました。
まじめに職務を果たそうとすれば無尽蔵に苦労だけが増し、のらりくらりとサボっていればどこまでも楽になる、という構図が浮かんできます。楽をしたい。それは事実。しかし何もしたくないわけではないのです。
自分の中にある、仕事もしたい楽もしたいという矛盾した欲求を感じます。
「ちなみに、おじいさんのファイルはないのでしょうか?」
「ない。つけてないからな」
だとは思ったんですが。
「本当に、文字通り、何もしていない?」
「あくまで形だけの責任者でな」
「ろくなアドバイスをいただけない理由がわかりました」
「失敬な、だが知恵はあるぞ。そうだな、お前は、調停間の主な業務であるところの、彼らと折衝をしたり記録したりするための下地が欲しいわけだな?そのために彼らには一箇所に集まっていて欲しいと」
「まー、そうです」
不本意そうな顔から一転、祖父は思考にふける真摯な様子を見せました。やがて面を上げてこういいます。
「甘味はどうだ?」
「甘味?砂糖とかですか?」
「いや、甘いものだ。いろいろあるだろう。菓子の類が。連中はそういうものが好きだからな」
「お菓子で釣るわけですか」
「そうだ。これは古い手なんだが、容器を土に埋めて、そこに蜂蜜をそそいで一晩待つという作戦があって、効果は絶大だったそうだ」
「カブトムシを取るのではないのですが」
「甘い蜜に寄ってくるところは同じだ。彼らは本能には逆らわん」
「言いたいことはいろいろあるんですが横に置くとして、何よりその戦法は、えてして目当て以外の虫たちを大量にひきつけてしまう恐れがありはしませんか?」
「そんなものは手で取り分ければよかろう」
「とらうまものですな」
「そんなこといってたらフィールドワークなんてできんぞ」
「まあ、そうなんでしょうけど。わかりました、やってみます。ありがとうございます、おじいさん」
私は配給札の入った封筒を掴み取り、事務所を後にします。


広場に駐留しているキャラバンにより、嗜好品に交換できる配給札を一枚渡し、選択できる品目から瓶詰めのそれが残っているのを見つけて受け取り、自宅に戻ろうというときにはすでに六時直前というころあいでした。
「ただいま戻りましたー」
「ああ、おかえり」
時計を見ると、残念ながら六時を一分ほど過ぎていたようです。急いで帰ってきたつもりですが、今度こそ門限破り。諦めるほかなさそうです。
「では」
祖父にわびるようにこうべをたれます。叩きやすいように。
「なにしとる」
「おや、お咎めなしですか?」
「何のお咎めだね?」
あれれおやや?
違和感が膨れ上がります。
でも藪を突いて蛇を出す愚は避け、そそくさと自室に引き下がることにしました。幸運の原因を突き止めようとして幸を逃すことはないのです。
翌朝、私は祖父に一言断り、自宅から直接現場に向かいました。
ゴミ山は相変わらずシンと静まりかえっており、何者かが潜んでいる気配はありません。
場所にめぼしをつけて、持参してきたシャベルで穴を掘ります。十センチほどの穴ですから作業は一瞬で終わりました。そこに空き缶を埋めます。虫対策として切り口が地面より少し高い位置になるように固定。
作業はものの数分で終了。
この仕掛けに蜂蜜を注いで一晩待てば、翌朝様子を見に着た私は見事インセクト系のショック映像に出くわすことが可能なのです。
なので考えました。
液体はまずかろうと。
固形であれば摂取できる主もいくぶん減じるのではないかと、まあ素人考えではありますが、思ったのです。
そうして調達してきたのがこの瓶詰めの、金平糖。
底が隠れる程度まで注いで、後は待つばかり。


「あとは、場の楽しい度だな」
「楽しい度」
胡乱な言葉そのに。
事務所に帰還し、再度の助言を請うことで得られた言葉がこれでした。
「楽しい度が低いと、彼らの活動性は低下していくのだ。とく個体数が少ないうちは外部的な要因がないとなかなか定着はしないな」
「楽しい、それはお祭りですとか?」
「だけじゃないぞ。遊戯、菓子、踊り、楽しいと感じることはいくらでもある」
「また漠然としたアドバイスですね」
「例の仕掛けは試してみたのか?どうだった?かぶとは取れたか?」
「六時間置いて見に行きましたけど、蟻がベルトコンベアを作っていただけでした。かぶとはいませんでしたよ」
祖父はちょっぴり残念そうでした。
「それは楽しさが足りんのだ。もっと場を彩らなければいかん」
「どうすれば楽しい度は上がるんでしょう?」
「いろいろあると思うが。例えば、子供用のランチプレートでライスに立てる旗があるだろう、ミニチュアの旗」
「あまり印象にないんですが」
おそらく祖父は外食産業に見られた普遍的なメニューの約束事を示しているのでしょうが、私の世代にはいまいち認識にないものだったりします。
「たとえのたとえになるが、あれだ。子供が喜ぶように、野菜を星型のカットするような」
「ああ、そういった手管ですか。何度か学舎生活でくらいましたけど」
「くらった?へんな言い方だな」
「負けませんでしたから」
と、寮での戦いのような食事の日々を回顧します。
なんとしても子供らに人参を食べさせねばならないという非現実的な妄執に取り付かれた寮母。対して、胸が吐き気で満ちるような甘みを断じて嚥下すまいと決意しているわが肉体。
しかも悪いことに、人参を残していたのは私だけではなかったのです。
私と同期の生徒らが、揃ってあのせり科の越年草を嫌悪していたのは単なる偶然でしたが、皆があれを公然と残し始めたのは糸的な行動の一致でした。
その闘争史の進歩と変移は、現実のそれとひどく似ています。
最初はごく原始的なやり取りであったのです。相互の無防備さは、閉鎖環境で天敵もなく進化してきた(今は絶滅した)大型哺乳動物に例えられます。たとえばそれは丸焼きですとか、サラダスティックですとか、輪切りにしてバターで焼くか茹でるかしたものですよか、そういうなんら出自を隠さない、ありのままの姿が、食卓にしばしば見られたものです。
やがて寮母は気付きました。いろいろなことにです。
まず、出せども出せども手付かずで戻ってくる人参の存在に。気付かないはずもないのですが。寮母はもちろん文句をつけました。しかし頑として拒絶を続ける私たちと彼女の間に、やがて効果を期待しての言葉はなくなっていきました。聡明なことに説得の無意味さにも、彼女は気付いたのです。
威嚇の言葉がなくなると、あとは技術の進歩があるばかりでした。
星型にくりぬくという調理術などは、その初歩の初歩たるものといえます。
不毛な争いはやがて野菜ジュースに少量混入するという、極めて高度な水準にまで達しのたのですが、それ以上に顕著になったのが水面下での諜報戦でした。曰く「今日は仕入れのものがあれのかごをぶら下げてきた」だの「調理場の片隅に箱につまったあれが発見された」だのといった言葉が飛び交うようになったのです。
調理場にあれが置かれているということは、その日の料理は警戒すべきものということを意味します。
寮母もこの愚考にはすぐに気付いたのか、口八丁を聞かせて子供たちをけん制するのですが、ついうっかり「あんたたち喜びなよ今日は人参はなしだよ」などと言おうものなら、たちまち年少組みの実行部隊が厨房に忍び込んでないはずの人参をすべて盗み出すといった身もふたもない政治色を呈しはじめたのです。
というような話をしていたのですが、途中で祖父は疲弊した顔になって手を振りました。話は中断されます。
「人見知りをするくせに図太い性格になるわけだな」
成長したといって欲しいところです。
「話を戻すと、おもちゃの旗一つでも立てれば、楽しい度が上がるという理解でよいんでしょうか?」
「あがらないはずがない」
「なるほど。試してみます」
旗。そんなものは簡単に用意できます。
夕食後、適当な棒と布切れで作りました。
旗の絵柄、つまり国の選択には悩みました。
国旗と申しましても、手書きできるものとできないものがあります。
祖父から辞典を狩り、国旗のデザインを調べたところ、インドネシアやリビアは簡単そうでした。リビア国旗などは手書き以前に単色ですし。
対して、サンマリノなど複雑な模様が描かれたものは、少し再現で競うにありません。
楽しげなデザインであることも重要そうです。
スリランカみたいに動物が描かれていて良いのかとも思いましたが、悩んだ末、旧世紀で最も娯楽どの高い国旗は、セーシェルに決定しました。
なんかこう、広がる感じですね。ワイドに。
翌日、完成した旗を持ってゴミ山に設置に向かいました。
アリの労働力とはすごいもので、昨日の金平糖は一粒残らず持ち去られていました。この罠は完全に不発となったのです。
さて、同じ仕掛けを再利用して客寄せをやり直すわけですが、社会性昆虫のアリが餌場を記憶しないということがありえるでしょうか?
私は穴の場所を変更し、再度容器を埋めなおします。横に旗をさして完成。
さて。
一度戻るのもしんどいので、今日はこのまま観察してみようかと思います。そのための準備も怠りなくそろえてあります。
ある程度の距離を置き、ピクニックシートを敷きます。
その持参物。弁当・水筒・茶菓子に貸本、帽子鉛筆にスケッチブック、年代ものの双眼鏡。双眼鏡だけは祖父のものを借りました。
うららかな春の陽気のもと、充実のフィールドワークに励むのも悪くはないでしょう。一冊のスケッチブックと小説本があるのですから、半日だって粘れます。
頬をぴしゃりと両手で叩き、気合も十分。
「いざ」
腹ばいになって両肘をつき、双眼鏡を構えます。


目覚めは快適でした。
うす雲でぼやけた陽光を背中に浴び、いつしか私は眠りこけていたのです。
「しまった」
フィールドワーク時々ピクニックの予定がいきなり崩れてしまった。
すでに数時間ほどが過ぎてしまったようです。時の流れはいつだって穏やかに残酷なのでしょう。幸い太陽はまだ輝いてくれておりますが、昼をまたいでからやってきたため、空が夕日で焦げるまでそう猶予はないはずです。
そして双眼鏡がありません。これには少々どころではなくあわてます。身の回りを手探りで、蜘蛛が旋回するように探し、ようやく足首の横に発見してホッと安堵の息をつきます。こういった複雑な機械は、今では貴重品となっていて、なくしてしまったら同じものが手に入ることはほとんどないのです。
さて、罠の具合はどうなっているでしょう?
軽い気持ちで双眼鏡をのぞくと、仕掛けの周辺で群れて談笑している大勢の彼らの姿をモロに見ることになりました。

一度目頭を指でほぐして、錯覚である可能性を打ち消します。
改めて、双眼鏡。
間違いようもありません。確かに彼らはそこにいました。
皆、手にした金平糖に一心不乱にかじりついています。
「なんとも、あっさりと、まあ」
事が簡単すぎて、どうしたらよいのかわかりません。
挨拶をしなければならないのですが、このまま出て行って一斉に逃げられたりはしないでしょうか?
どう声をかければよいのでしょうか?
掛けなければなりません。私は調停間で、彼らと接触しないことには仕事にもなりません。私は仕掛けを作り弁当持参で野に出てきましたが、ファーストコンタクトの問題をどう解決するかについては全く失念しておりました。
いや、それよりもまずは
混濁する思考の中から、とりあえず計測という選択肢を抽出することに成功します。

計測終了。なんと全部で七十一人。
今また砂糖菓子の魔力に招かれ、一人がふらふらと寄ってきました。七十二人。
全員が似たような姿をしています。
極端に低い頭身、人間用のボタンを一つだけつけた厚手の外套。
三角帽子を載せた大きな頭。
ちんまい手袋とブーツ。
異国の民族衣装のようにも見える装いです。
格好は似ていても色とりどり。
赤、青、緑に黄色、オレンジ、パープル、ビリジアン。
アクセサリーは多彩。
ひん曲がった王冠、ペンのキャップ、折り紙の兜、卵のから、いろいろなものを一人が一人ずつ見につけています。どこか誇らしげに。
全員がやんちゃな男の子のような印象。
平均身長十センチ。
彼らが何者なのかって?
そう
あのちんまい方たちこそ

地球人類だったりしますね、このごろは。

妖精さんの姿が始めて確認された時期は、実は定かではありません。
二十一世紀の中盤ごろにはすでに多数の目撃例が報告されていたそうですが、それ以前の細かな状況は、残念ながら古い電子情報網とともに形而上的空間へと沈みゆきました。いや、別に残念ではないのです。電子情報時代の情報ほど確実性に乏しいものもありません。一時は盛んにサルベージされていたそうですが、あまりにも不毛な作業だったため今では誰も見向きもしていない分野です。なんせ嘘だらけ。情報源語学には手を出すな。
むしろ電子情報がない時代の記録。こちらが重要です。
図版や伝承といった形で、妖精さんの存在がほのめかされているからです。
ああすばらしき紙媒体。しゃれがわかるし誠実だし気が聞いてるしがっついてないしなにより知的だし言うことなし、でも千年たっても劣化しない髪だったらなお良かったのに、とこれはおそらく人類最後の研究者の道を選んだ、友人Yのお言葉。
とにかく、妖精さんがぼちぼち目撃されるようになって、そして、いろいろなことが起こって、それらは記録に残ることもなく、ただ結果だけを今生きている私たちに突きつけています。
すなわち、私たち人は地球人類の座を自ら引退しており、彼ら妖精さんに地位を明け渡しているのだと。
国連調停理事会とは、引退した人類と彼ら妖精さんとの軋轢を解消する目的で設立され、現時点ではほぼその役目を終えた組織です。
よって人類と表記される場合、それは妖精さんを示すものとなります。
私たちのことは、旧人類とか単に人と呼べばいいでしょう。ホモサピエンスでもかまいませんよ。
妖精さんたちは、生物学的分類の範疇から外れていますから(そもそも生物か否かもわからないくらいです)、これらの呼称が重複して同じものをさすことはありません。
特に人類という単語のみが特別枠に移動し、妖精さんたちを示唆するものとなった、このことだけをご理解いただければ不都合はないでしょう。
すでに人は種としては衰退期。
ここ数百年だかを通じてゆっくりと人口を減じ、今にも消え去ろうとしています。
科学技術も失われました。
都市は放棄され、生活圏も縮小しました。
そして地球は妖精さんにおまかせなのです。
彼らは荒れ果てた大地でも、自由に生きる力を持っています。ただその方法を、私たちは詳しくは知りません。言葉は通じるというのに、対話することは滅多にない。もしかすると、昔あった何かが、私達両種族の距離を生んだのかもしれません。今となっては知るすべもない真実という形で。
さて。
私は調停間として、彼らとなじみになる必要があります。
妖精さんと人の問題に対処するため、間に入るのが調停間というものです。
日ごろから地域住民との密な対話が求められています。
そういった事前の準備が、将来の仕事をスムーズなものにします。いけてる女というものは、皆そうやって上手にエレガントに仕事をこなすものです。
最小の手間で最大の効果を。実現できた瞬間、それは有能さの証左となり、自らの矜持となり、これはつまり、そういう類の行為なわけです。
なんとしても、私はあの超メルヘン生命体と親睦を深める必要がありました。
タイミングを計り、私は身を低めて小走りに接近していきました。
そのとき初めて自覚したのですが。
緊張のあまり四肢がギクシャクしています、渡し。
正座した直後に無理して走り出すような、自分をコントロールできない時に訪れる、あの言いようのない不信感。案の定、つんのめってしまいます。あらあらどんどん地面が近づいてうふふ。いつもお世話になってますわたしの体。本当に毎度毎度ここぞという局面で恥をかかせていただいて。
急速に地面が接近してきました。
衝撃。
背丈が無駄に高いので、転倒も派手なのです。
「いたた」
一日も早く粗忽なところのないアダルトな女にならなければならない、と転ぶたびに強く思う次第です。
それより妖精さんです。鼻を押さえながら顔を上げます。すると案の定、全員が銀杏のような形に見開いた瞳で、私を注視しているじゃありませんか。
「あ、あの、その」
上手く言葉が出てきません。
焦りは誤判断を招きます。
あろうことか、すくっと立ち上がる私。
数年前に女としての大台を突破しいまや恐るべき高みに置かれているはずの頭部は、身の丈わずか十センチの世界からは、ずももと隆起した津波のように見えたことでしょう。
彼らはいっせいに、

「ぴーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!??」

ガラスが割れそうな、悲鳴の大合唱でした。
蜘蛛の子を散らすとはこのことでしょう。
四方八方に逃げ出していきました。
ああ、実にすばやい。
空こそ飛ばない妖精さんは、神話伝承の区分におけるフェアリーよりもコロボックルに近い存在ですが、とりもなおさず敏捷性は人を大きく凌駕してます。
「あの!ちょっと、まって、おねがい!」
声をかけながらも自分でわかっています。待ちはしません。こういう局面で、普通は。
私も彼らの立場だったら、絶対に待たないと思いますしね。
伸ばしかけた手を、ぱったりと落とします。
瞬時に十も老けた様な気分です。
「なんてこと、最初からこれでは先が思いやられる・・・せっかくの仕掛けも場所を変えて張りなおししなければ」
老女のように仕掛けに歩み寄り、罠の容器を覗き込みました。
「まあ」
隠れていました。
三人ほど。


魔が差したのです。
差してしまったのです。ぶっすりと。
気がつけば、自室の机の上に三人のよう生産。
全員なぜか正座です。
そして恐怖に震えています。
無理もありません。
見つけた瞬間、容器の口を手で押さえ、逃げ帰ってしまいましたから。
はい、魔が刺したというか、完全な拉致なんですけれども。
これ深刻な異種間問題になったりするんでしょうか?
原則として、調停間は妖精さん社会には不感症が常とされております。
何とか事態の隠蔽・・・ではなく解決を図りたいところです。
「あの、皆さん・・・?」
話しかけると、三人の妖精さんは死刑の順番を告げられたみたいにびくりと身を震わせました。
完全に恐怖に支配されています。かわいそう。
いや、モロに私のせいなんですけどね。
しかしどうしたらいいやら。
このまま軟禁しているわけにも行きません。
「ごめんなさい、こんなつもりではなかったんですけど、こんなことになってしまって」
三人は涙目で私を見上げてきます。
ああ、いたいけな瞳。
スイッチがオンになっちゃいそうです。
「ええと、何か召し上がりますか?それとも」エスプリの聞いた冗談で場を和ませようと試みます。「あなたたちのことを私が美味しく食べてしまいましょうか?」

「ーーーーーーーーーッッッ!?」

連鎖的に失禁する三人。
「ごめんなさい。一瞬自分でも不謹慎かなと思ったんですが、ごめんなさい。ですからごめんなさいってば。食べませんから。もし」
絶望的に縮こまる三人を何とかなだめます。
ちなみに妖精さんはほぼ真水を排泄なさるそうです。
だからといって飲もうとは思いませんが。
気を取り直して、別のアプローチとして餌付けを試しました。
しかも妖精さんたちが好む砂糖菓子。
最初からこうしていればよかったんです。
「残り物ですけど、いかが?」
金平糖を指に乗せて差し出しました。
三人はべそをかき書き顔を見合わせ、うち代表一人が立ち上がり、あお向けた指先に近寄ってきます。
二十センチほどの距離で立ち止まり、じっとこちらの様子を見て、敵意がないことを見るとようやく受け取ってくれました。
やった。
この一粒は小さな一粒ですが、新旧両人類にとっての偉大な一粒になるといいなあ。
「さ、どうぞ」
怯え怯え、口につけます。
意識のほとんどでこちらを警戒していて、最初は味などわからないふうでしたが、次第に美味しいゲージの割合が増加していったようで。
一粒食べ終わる頃には、警戒心も消滅し、なんだかまったりした様子になっていました。
「ものすごく餌付けが簡単な種族なんですね、あなたたちって」
その様子を見て、後ろの二人もヒソヒソ話し合っていたので、彼らにも一粒ずつ転がしてあげました。
たちまちたいらげられてしまいました。
三人はどこかそわそわした様子で、こちらを窺っています。
どこか物欲しげに輝く瞳で。
意味するところはすぐに理解できました。
「いいでしょう」
ビンを机の上でさかさまにして、残りをぶちまけました。
「さあ、好きなだけ召し上がれ」
三人は喜色満面、菓子山に飛び込みます。
狂乱の宴の始まりでした。
十分後

きゃいきゃい♪

楽しげにじゃれあってます。
無心に遊んでいます。
満腹になったら遊び心が出てきたご様子。
空瓶に飛び込んだり飛び出たり詰まったりと無邪気なものです。子猫のよう。
私はイスに腰掛けて、無言で彼らの様子をスケッチしています。
残ったら一つ二ついただこうと思っていた砂糖菓子はすっかりなくなってしまいましたが、何、賄賂だと思えば安いものです。
「新任そうそう贈賄を駆使してしまった」
敏腕調停間の所業です。
それにしても動き回る四人の妖精さんをスケッチするのはなかなかに大変な作業で、せめて三人くらいだったらと、


「増えてませんか?」
妖精さんたちはぴたりと動きを止めて私を見つめます。
いち、に、さん、し、確かに四人。
でも連れてきたときは三人だったはずなのですが。
眉間にしわを寄せている私に、一人の妖精さんが歩み出ました。
「あの」か細い草笛のような声で「にんげんさんは、かみさまです?です?」
「神様?」
「かみさま」
はて。
神になった記憶はなかったりしますが。
旧人類たる私たちは、彼ら妖精さんにとって神にも等しい存在なのでしょうか?
「神様、ではないはずですけど」
すると四人は円陣を組んで相談を開始。代表一人が前に出て、
「しかしとても、おおきいです?」
「あなたたちから見れば、そうですね。でも神様ではないです」
「にんげんさんは、にんげんさんは・・・」何かを伝えようと言葉を探しているようです。しかし見つからない。もどかしい。気持ちが動きに現れて「ああー!」
すごくかわいいですね、この小型人類。
「こう考えると良いと思います。あなたたち妖精さんは、今の人類」次に自分を指し「そして私たち人間は、昔の人類」
「むかしのじんるい」
「もう引退してます。ご隠居です。昔は小粋に戦争などもしておりましたが、今ではもう全く穏やかなものですよ」
円陣。ささやき。構わずその上から話しかけます。
「ですから私のことは、そう怖がらないでもいいんですよ」
ひそひそひそひそ。
「どうでしょう、わかってもらえましたか?」
ひそひそひそひそひそひそひそひそひそひそひそひそ。
「あの、もし?」
「にんげんさん!」
円陣が解け、一人が前に出て挙手します。
「なんですか?」
代表者さんは無言で指先を突き出しました。
そのままの姿勢で、ギュット目を閉じています。
まるで何かを待っているかのように。
さっぱり意味がわかりません。
が、とりあえず、こちらも指先を伸ばしてつんと触れ合わせてみました。
古い映画にそんなシーンがあったことを思い出したのです。
その結果どうなったかというと、
「わー」「おー」「んー」「あー」
感心されましたね。
彼らなりの握手みたいなものなんでしょうか?そうだといいんですけど。
「さて、顔見知りになったところで、ゴミ山に帰りたいですよね?無理やりつれてきてしまいましたものね?」
「ごみやま?」
「あなたたちのいたところですよ」
「ごみやま、かえるです?」
「ええ。あなたたちの、住んでいるところなんでしょう?」
四人は同じ角度とタイミングで首を傾げます。ぴたりと重なるお返事が、
「さー?」
「自分の生まれた場所、わからないんですか!?」
「うま、れた?」
へんなスイッチを押した気配がしました。
四人はまた円陣を組みます。
「にんげんさん、ここでまたごしつもんです」
「は、はいどうぞ」
「ぼく、いつうまれました?」
「知りません」
「なんと」
「なぜそれを私に聞きますか?」
「さー?」
追求しないほうがよさそうです。
「それより、皆さんのお名前を教えていただけますか?」
四人分の沈黙と視線を受けました。
「名前ですよ、名前。自己紹介してくれるとうれしいんですが」
「な、まえ?」「ねーむだ、ねーむ」「ねーむとはなまえのことだ」「ぺんねーむでいい?」
「いいですよ」
しばし考え込む発言者。「よくおもったらなかったです」
「でしょうね」
ちょっと慣れてきました。
「なるほどぼくら、なまえ、ありませなんだ」
「不便なのでは?」
「かも知れないです」
「普段、仲間内ではどうしてるんです?」
四人はポケラーっと口半開きで考えます。でた結論が。
「にゅあんすで」
「そうですかー」
平和地球万歳。
「でも、私から見てななしさんばかりだと、ちょっと不便ですよ」
「さようですか」「すいませんなさい」「ちんしゃします?」「おいしくたべられます?」
「食べませんよ」
「なんだよ」「いのちびろい?」「かくごしなくてもよかった?」「にんげんさんのちにくになります?」
「食べませんってば」
またも円陣を組む妖精さんを見て、一つ思い出したことがありました。
せっかくお近づきになったのですから、固体として認識するすべが必要です。観察対象の野生動物をナンバリングするような、何か。
相手は対等の(あるいは上位の)知的生命ですから、一方的なことはできません。名札をつけるとかの被験対象には取れないのです。
だから方法は実質一つしかありません。
「皆さん、ご注目」視線を集めて「私は、これから妖精さんたちと仲良くしたいと思っています。なので皆さんに名前を進呈させてください」
妖精さんたち取り乱します。
「ばかな」「そんなことが?」「かちぐみやんけ」「いっそたべて」
「じゃあ食べます」

「ーーーーっ!?」

一人が失禁すると他の三人も貰い失禁ですからね、この種族。
見えないところで精神でもくっついているんでしょうか?
「嘘です」
「うそだた」「だたね」「よかた」「にんげんさんにほんろうされるです」
「かわいいですね、あなたたち」
さっそく命名してあげることにしました。
妖精さんは外見の差は少ないのですが、格好にはそれぞれ微妙に違いがあります。
「そうですね、じゃあ一番目のあなた」
ピッと指差して、
「ねがいます」
「えーと、なんとなくリーダーっぽいので、きゃっぷさん」
「きゃぷー」
「帽子にこだわりを持ってくださいね」
「ときめくごていあんでしな」
「で、あなた」
次は二番目の妖精さん。
「はい」
「なんとなく日系な印象なので、なかたさん」
「そーきたかー」
「スーツとめがねとカメラ装備で二十四時間戦ってください」
「かんたんのはんたい」
「さて三番目さんは」
三番目さんは途中で手を上げて言葉を断ち切りました。
「にんげんさん、ごていあんです」
おや?
「なんでしょう?」
「じぶんでなまえ、きめたいです?」
「おや、自分で名乗りたい名前でもあるんですか?」
こくこくとうなずく妖精さんです。
「もちろんいいですとも。どんなお名前になさいます?」
「さー・くりすとふぁー・まくふぁーれん」
「サーの称号まで」
「おきに、おきにー」
お気に入りですか。そうですか。
「だめ?」
「いいえ。かまいませんよ。素敵なお名前です」
「がんばるますー」
「ぼ、ぼくなのでは?そろそろ、ぼくなのでは?」
四番目の妖精さんが、待ちきれない様子で両手を挙げます。
「ではあなたは」
「じぶんでおなまえつけてみては?」
「あなたもですか。いいですよ。どのような名前に?」
「ちくわ」
「食べられたいんですね」
「まちがいです?」
「ある意味」
「ならばー」
ちくわ(仮名)氏は、まくふぁーれん氏をちらみします。
「さー・ちくわ」
「食べ物は貴族にはなれませんね」
「なんとー」
本当はなれるんですけど。
ここでサーロインを持ち出しても話が複雑になっちゃいますから、ちくわさんで決定とします。
これで、四人の妖精さんと親交を結びました。
彼らに窓口となってもらえれば、他の妖精さんとも接触しやすくなるはずです。
調停間としての滑り出し、まずまずなのでは?
「さあ、そろそろ山に帰りましょうか」
「はい」「うい」「もい」「かえるのです」

「で、なぜそんないきなり切羽詰っているのだお前は?」
夜、自宅、食卓。
祖父の蔵書・世界人名事典を片手に、スケッチブックにペンを走らせながら、祖父に答えます。
「知り合った四人の妖精さんに名前を付けてあげて、仲良くなったのは委員ですが」
「察するところ、他の仲間の名前も付けてくれと頼まれたわけか」
スケッチに列挙された名前を一瞥しただけで、正解にたどり着きました。
「はい。なんだか、思ってたよりずっとフレンドリーな種族ですよね」
「彼らはもともと人間が大好きなのだ」
「身をもって知りました」
「その辺りはいろいろ複雑なのだがな、まああの辺りの資料にあるはずだから、自分で確かめてみるといい」
とキャビネットを指差します。
「私も子供の頃は、彼らと普通に接していたように記憶してますけど、こういう付き合いはありませんでしたから」
「子供もまた要請だからな。記憶は成長するにしたがって、あいまいになっていく。薄膜がかかるようにな。そしてそのヴェールの向こう側には、時として魔術めいた世界が隠されていることがあるのだ。ロマンだな」
「えー、確かー、おじいさんはもと学者大先生閣下なんでしたよねー?」
「何だ、馬鹿にしてるのか?オカルトもまた一面の真実だぞ?歴史においても幾度となく学問として復権している。そもそも妖精が実在するという一点において、我々は真実を知らないのだからして」
「一瞬、老人ボケかと思いましたよ」
「私はお前より長生きするぞ」
「まあ長生きしてくださるのはいいことなんですが、ほどほどにしてくださいね」
「氏ねと言われている様な気がするが」
「ああ、やっと五十人分」
名前もちゃんと考え出すと難しい。
「しかしあっさり仲良くなるとは、上手くやったもんだな」
「そ、そうですね」
拉致疑惑については伏せてあります。
「ということは、彼らはまたあのゴミ山付近に集まり出しているわけだな」
「そのようですよ。明日また様子を見に行くつもりなんですけど」
「うむ。なら、覚悟しておけ」
ペンを止めます。
「といいますと?」
「妖精という存在について、我々が知っていることは意外と少ない」
祖父の語りは真理をまさぐるもの特有の誠実な含みを帯びます。
「彼らがどこから生まれ、どういう生態なのか、ほとんど知られてはいない。わかってることといえば、数が多いこと、高度な知性と技術を有していること、生きるための食事を必要としないこと、そして既存のいかなる生物とも異なるしゅであること、くらいだ」
祖父の言葉は、私が学舎で洗濯した人類新学の講義の記憶に、特急便で接続されました。人類進学とは、人類学の妖精部門のことです。噛み砕けば、妖精さんについてのお話。
確かに妖精さんは数多くの謎があります。
しかしその謎は、一度たりとも解かれたことはなかったんでしょうか?
答えはノーだといわれています。
少なくとも私たちは、一度は彼らの謎をある程度まで解いたのではないか?
まだ地上の大半が旧人類の世界だった頃、科学と英知が都市に校舎に書籍に電子情報網に満ちていた頃、絶頂の頃であれば、決して不可能ではなかったはずなのです。
情報は失われます。
私たち旧人類は、その歴史の中で情報的な断絶を幾度か挟んでいるのです。
例えば私たちは、人類が引退を決意した決定的な理由を知りません。ただ遠い昔、そういう決断があったとだけ伝えられています。
どこかに情報は眠っているのかもしれません。
でもそれを取り出して改め、真相を明らかにしようという情熱を、もう我々は有していません。
衰退しちゃってるんです。
妖精さんがどうやって繁殖するのか?
なぜ食物を必要としないのか?
私たちと同じ言語を扱うことができる理由は?
高い技術力の根底にあるものとは?
真実は時の流れに埋没しており、それは物事を記録する習慣をもっていない妖精さんたちでさえ知り得ないことでした。
私たちはただ生きています。
それで充分だといわんばかりに。
祖父の話も、その辺りをより専門的になぞる形で進みました。
「といった点から、ごく端的には要請はまさしく魔術的な存在だと主張する向きもあったようだな。単にロマンと換言してもいいが」
「調べるのに疲れてしまったみたいな結論ですね」
「仕方あるまい。分裂して増えているかもしれない知的生命体に、どうやって科学のメスを入れたらいいのか、誰もわからなかったのだ」
「分裂」思い当たることがモロにありました。
「生きるのに食料を必要としない、という説もあるぞ」
「でもお菓子は食べてましたよ?」
「嗜好品としてな。だが彼らが農耕や狩猟によって社会を支えている、という事実は未だ確認されたことはない。伝承に曰く、妖精は物質のエッセンスだけで生きることができるのだそうだ」
「エッセンス・・・」
「説明はつくぞ。妖精が繁殖のための段階であると考えればどうだ?カゲロウの成虫は成虫に脱皮した後、食事を行なわないのと同じように」
「ああ、それならありえますね」
「生きるために特別の労力を必要としないのなら、あの膨大な知性と活力にも説明が付けられるだろう。生殖についてもそうだが、まるで生物としてのくびきから開放されたような存在だ。どれだけ文明を進歩させても、最後まで生物でしかなかった人類とは根本的にそこが違う。振り分けられるリソースの佐賀、すなわち可能性の差となって現れた結果、今の世代交代があるのかも知れんな」
「結構考えてらっしゃるんですね」
「こんなもの考えのうちには入らんよ。探求というものはもっと深遠なものだ」
知識の面では、祖父にはかないません。
学歴を持つ身としては懐かざるをえない軽い嫉妬を、肩をすくめて見せることで散らし、再びリスト作成に戻る私です。
「しかしお前は眉が太いな」
ペン先がスケッチブックに突き刺さりました。
「看取りませんよ?」
「お前より長生きするといっただろう」
キッチンに戻ろうとした祖父ですが、一度振り返って言います。
「ああ、そう、一つ言い忘れていたが」
「はい」
「妖精は個体として接しているときと、集団でいるときとでは、全く別物だと思ったほうがいい。群れた彼らは巨大なう文化と科学技術の溶鉱炉だ。それはちょっとした弾みで昇華するし、新文化は一瞬で伝播する。人には決して制御できない勢いで」
私は手を止め、顔を持ち上げました。祖父の言葉は続きます。
「単純に言えば、妖精はたくさん集まると面白いことをおっぱじめる、ということだ。人間以上の知性とリソースと効率と情熱を総動員してな」
「具体的には何が起こるんです?」
「わからん。どんなことでも起こり得る。彼らの間で何が流行しているのかは私にはわからん。調停間として、お前が一つ飛び込んでみてはどうだ?」
「おじいさん、前任者なんですから、その無責任な指導は」
私の文句を無視して、祖父は言い切ります。
「おお、そうだ。もしいくというなら、その辞典ごと持っていくといい」
「とても重いんですけど」
「もっていったほうがいいと思うがね、私は」
含むような口調で祖父は笑いました。
「はい?」

翌日。またゴミ山を訪れます。
「え・・・?」
そこはゴミ山ではなくなっていました。
メトロポリスでした。
しかもSF未来予想図風。
ただしミニチュア・サイズ。
都市のミニチュアですからそれなりの大きさです。
以前ここにあった、見上げんばかりのゴミ山が、同じような輪郭を保ったままミニチュア摩天楼へと置き換えられています。
高層建築物は皆レトロな未来はデザイン。
ビル間を無数の透明チューブが繋ぎ、中を未来かーが行き交っていたりします。
舗装された歩道を、大勢の妖精さんが忙しそうに動き回っています。
都市の中央にはセントラルタワーと呼ぶべき建物がそそり立っており、てっぺんには金平糖の仕掛けで用いた手作りの旗が翻っていました。
祖父の言うとおりです。
妖精さんは数が揃うと、すごいことをしちゃうんです。
にしてもですよ。
「行きすぎです」
高度に発展した科学は魔法と見分けがつかないそうですが、冗談とも区別がつかないことに気付きましたよ。
極小サイズの巨大都市に接近してみますと、これはずしんずしんと足音を響かせて都市に攻め入る怪獣の視点ではないですか。
たちまち妖精さんたちは私の存在を察知しました。
警報がワーニンワーニン鳴り響きます。
「あら?」
都市中の妖精さんたちの動きが、一気に慌しくなります。
怯えているのか単にあわてているのか区別がつきませんけど。
私は適当な広場まで進んで、そこで立ち止まりました。
「さてと」
頭上五十センチほどの高度を複葉機が飛んでいます。
実際の複葉機とは異なる、どことなくおもちゃのようなシルエット。原色をべたべたと塗りたくった小児的カラーリング。特に攻撃するでもなく、ひたすら旋回を続けていました。土地のパニックを演出するかのように。
立ち尽くす私を、大勢の妖精さんが遠巻きに取り囲み始めました。
どこか怯えがあるのか、一定の距離にはよってきません。結果、私の周囲には円形の隙間が出来上がり、何もないはずのそこには独特の緊張が流れ込んで来たのです。
小さくてもこれだけ視線が集まると、少し緊張します。
妖精さんというのは、大変忘れっぽい気質で知られています。
例えば彼らは、自分たちが万物の支配者であることを自覚していない節があります。だから人目を避けて暮らす生活様式を変えることもなく、たまに接触する人間に対しては恐れ敬いあるいはなつくといった、主従の従にあたる振る舞いを見せるのです。
「あのー、こんにちは」
ざわざわざわ。
反応はありましたが、明確な言葉はありませんでした。
「えーと、じゃあ昨日、私が送り届けた四人の妖精さんは、いませんか?」
今度は先ほどよりやや大きな反応。しかし対話は成立しません。
ざわざわざわざわ。
どうにもぎこちない空気がぬぐえません。やはり彼らと付き合うには、個体レベルの親交がどうしても必要になってきます。
「あのー」
そのときです。
左方にあるビルの一つが、真ん中から割れて左右にスライドしていったのです。ビルの内部に待機していたのはロボットでした。
子供向けのアニメに出てくるようなデザインです。
ファイティングポーズをとっているところから、都市の防衛なのでしょうか。
そんなものと、対峙してしまった私です。
よく見ると、頭部にある半透明のドームの内部に、妖精さんが一人搭乗しています。パイロット?
装備されている拡声器からこんな声だか音だかが、
「ぜあっ!」
「・・・」
内心唖然としていたので、上手く反応できませんでした。
反応がなかったことに臆したのか、少し弱気なイントネーションで。
「ぜあ?」
「質問?」
「さー?」
不思議な生き物です。
「ところで、ぼくらのしてぃ、はいかがです?」
そのパイロット氏が、いきなりフレンドリーな態度で話しかけてきました。
「とてもすばらしいシティですね」
「みんなあつまってきたらから、なにかしようとおもったです」
で、都市が完成したと。
「でもそうですね。一つ言うとしたら、発展しすぎ?」
「え?」
「昨日の今日ですから。もっと地道に進歩されても良かったような、くらい?」
「あー」
コックピット内で、妖精さんがねろーんと項垂れています。
「いえ、別に良いのですけどね、このままでも。でもこういう都市ごっこじゃなくて、普通に居住として作ったほうが良かったかなと」
「・・・」
あ、落ち込んでる。
「と、ところでそれ、素敵でスーパーなロボットですね」
くい、と持ち上げたおもては、もう喜びで紅潮していました。
「みなさんのまごころでうごいてます」
「でもそれ、戦うためのものなんですか?
「あなたは、てきです?もしてきだと、こまりますけど」
「違いますよ」
「それだとへいわなままです」
コックピットの上部にプロペラが展開しました。
ローターの回転に伴い、搭乗部分だけが頭部から外れ、ゆっくり浮上していきます。どうやら独立した小型ヘリコプターになっているようです。
「そ、それは?」
「とんでいけるはずです」
答えにならない答えを返し、ふよふよと飛んでいくのです。
「さよならです」
「さようなら・・・」
へりは飛んでいき、ビルは閉じました。
何事もなかったように。
「ええと」
困っていると、群衆がわれ、奥から一人の妖精さんが歩み出しました。
「おや、なかたさん?」
昨日名付けた日系?妖精さん。
どこからイメージを引っ張ってきたのか、今日は灰色のスーツを着用し、首からカメラを下げてめがねをつけてきます。
「こんにちは。他のお三方はどうされてますか?」
「みをまかせてるです」
「何に?」
「さー?」
野放図な生き方なんですね。
中田氏と私の会話を目の当たりにして、民衆にどよめきが広がります。
「にんげんさんとはなしてる?」「やすやすとはなしてる?」「はなしすぎてる?」「とーくだ、とーく」「どないやっちゅうねん」
「あのー、それで、名前の剣ですけど・・・」
なかた氏は首を傾けます。
「なまえって?」
「忘れちゃってましたか」
せっかく七十五人分までリストアップしたのに。
「ほら昨日、あなたたちを送った時、みんなにも名前が欲しいっておっしゃったでしょう?その仲間のお名前を考えてきたんですけど、覚えていません?」
「あったようななかったような」
「ありました」
「なかったようなあったような」
「ありましたってば」
「あったようなあったような」
「あなたたちはメモすることを覚えるべきですね」
「きおくのはざまでゆらゆらゆれるです」
揺れないで欲しい。
「わかりました。もういいです。とにかく皆さんに名前をつけますから、今から一列に並んで」
と、そこで気づきます。
よく見ると、民衆は広場を道路を埋めつくしているのでうが、これがどう考えても数千人以上いるのです。
「おや?」
増えてる。
用意してきたリストはたったの七十五人分。
「そうか、地域中の妖精さんが集まってしまって」
「まぜてー」「なにしてるのー?」「してぃごっこだー」「にんげんさんいるー!」「どうしたのー?」「なにはじまる?」「なまえだー」「なまえかー」
そして今のなお、小刻みに増えていっている模様。
「ちょ、ストップ!並ばないで下さい!中止中止!」
とても私一人でまかなえる人数じゃありません。
手をブンブン振って行列を散らそうとしますが、時すでに遅し。長大な、それはもう長大な行列が、広場を起点としてはるかとおおくまで伸びてしまっていました。さらに「すたっふ」腕章をつけた妖精さんがもうあちらこちらに立っており、列を誘導したり、整理券を配ったり、座らせたり、あるいは立たせたりと、見事な人員整理を行なっているのを見るに至って、もう引き返せない領域に踏み込んでいることを悟りました。
「あれあれあれー?」
おかしい。どこかおかしい。何かおかしい。
一瓶の金平糖から始ったちょっとした試みが、とんでもない事態に発展してしまいました。
大勢を巻き込むトラブルの当事者が味わうであろう、胃が縮み上がるような感覚に、私はかいたこともない汗をかきます。ああ、軽率な約束などするべきではないのです。
もしここで逃げ出せば、妖精さんとの友好的な関係を築くことは到底望めないでしょう。もしかしたら彼らは全て忘却してくれるかもしれませんが、数千人を一時でもいちどきに裏切るという選択は、想像以上の胆力を要するのです。
一瓶の金平糖。ひとにぎりの怠惰。ひとにぎりの野心。
ただそれだけの代価で、私は彼らにとほうもないエネルギーと技術の浪費を促すことになりました。一晩でこれなら、明日にはどうなっているんでしょう?この波がもし世界中に広がって、妖精さん社会に大きな爪あとを残すようなことになったら?
まずい。
だらだらと売るほど脂汗を流しながら、私は混乱のあまり脳内のお花畑(とても居心地が良いとの噂)に逃げ込もうとする理性を、渾身の意思で引き戻すのです。
「こんなことはじめてー」「なまえかー」「つけてもらえる?」「そういえば、なまえってあるとよいです」「べんりです」「どうしていままでなかったです?」「さー」「わからないね」「おもいつかなかた」「もうてんだた」
民衆は盛り上がっています。
中田氏が私の肩によじ登り、話しかけてきました。
「おなまえ、みんなに、つけるです?」
「・・・・・・・・・・・・」
長い沈黙の後、私は一つの決断をしました。
「つけるですー?」
「ええ、そうですね、そのつもりです」
心の中で懺悔だけ済ませておきます。たぶん足りないと思いますので、なんだったら分割でもかまいませんよ、本物の神様?
私はスタッフ妖精さんを一人手招きし、列を出来るだけ遠くにやらず、広場に押し込むようにお願いします。
「あいさー」
快く引き受けてくれました。
実に野放図に見えるよう生産ですが、その気になれば一糸乱れず集団行動をすることができるようです。列が渦巻状に巻き去られ、広場に圧縮されるまで、三分もかかりませんでした。
全ての妖精さんが、私の目の届く範囲に終結しています。
今がチャンスでした。唯一無二の。ありとあらゆる不具合をうやむやにしてしまうための。そう、謎に包まれたよう生産とはいえ、いくつかはわかっていることもあるのです。私にはそれなりの知識欲があり、学舎にはそれを満たしてなお余りある蔵書と生徒より数の多いおせっかいな教授陣がいました。人間関係が不得手な私は、持てる時間のおおくを渉猟にあてましたし、教授陣は一人残らず「病的教えたがり」でした。この頭の中には十年以上をかけて積み上げられた無駄で雑多な知識が、尖塔のごとくそびえたっていたりするのです。
私は両手を大きく広げ、勢いよく閉じました。
ぱちん。
広場に絶対の静寂が訪れました。
ざわめきの元になっていた妖精さんたちは、一人残らずいなくなっていました。逃げたのか?いいえ、違います。彼らは一歩も移動してはいません。そして渦巻状の行列があった場所には、かわりに、数千個のカラフル球体が転がっていました。
大変シュールな光景です。
私の肩からも、灰色の球体が一つ転げ落ちていきました。
これは、丸まり、という妖精さんの独特の修正です。
びっくりすると身を守ろうとするため丸くなるのです。膝を抱えているだけではなく、ちゃんとしたボール状。だんごむしと同じです。
本当に危険な生物から身を守れるのかは疑問ですが、とりもなおさず危機は去りました。
「ごめんなさい皆さん。約束は反故です」
今の内に逃げるしか。
持参してきたバッグを手に取ります。ずっしりと重いそれを。
重い?
そうでした。祖父にいわれ、人名事典を持ってきたのでした。異様に分厚く重く、鈍器のようなそれを。
「・・・」
祖父の意図が、今ようやく理解と言う形を伴って浮かび上がってきました。
私は震える手で、辞典を両手で掲げます。天高く持ち上げられた辞典は、神々しく輝いているようでした。
丸まり状態からほどけた妖精さんたちが、広場のあちこちでぼんやり座り込んでいました。睡眠も兼ねているようで、目をこすってあくびをしている方もいます。
おそらく命名に関する騒ぎは、何も記憶していないことでしょう。
中田氏がよたよた歩いてきます。
「それなんですー?」
「これが贈り物です」
「ほー?」
中田氏の黒々とした瞳には、辞典を掲げる私の姿がくっきりと映りこんでいました。
「この人名事典から、あなたたちは好きな名前を選ぶのです」
丸まりから復帰して集まってきた妖精さんたちに厳かに継げ、辞典をおきます。
「はー」
私を見つめる妖精さんたちの目は、無垢な感動に潤んでいました。どこか宗教的にも受け取れる恍惚を含んで。
「にんげんさんは、かみさまです」
中田氏が震える声でつぶやきました。


「で、例の件はどうだったね?」
食卓を挟んで、祖父が問いかけてきました。
「辞典をプレゼントしてしまったんですが」
この解答は予想していたのか、祖父は「そうか」とうなずくだけで、特別とがめる様子もありません。
「すごい都市化が進んでいましたよ。たった一晩で」
「人口が増えると相乗効果でな。そうなると場の楽しい度は増し、妖精はさらに増え、発展はさらに加速し、そのあとは雪だるま式だ」
スープ皿に浮かぶジャガイモを、口に運ぶまでもなく弄びます。
「今日のスープはお気に召さないか?」
「いえ、ちょっと気になっていることがあって」
「というと?」
「心にひっかかっているだけで、具体的にはどうとはわからないんですけど」
なんでしょうね、この不安は。

不安の正体は、メトロポリスを訪れた時に判明しました。
昨日と変わりないように見えて、一箇所だけ異なっていた点があったのです。
「んな!」
到底看過できない変化でした。
あのロボットが収納されていたビルが撤去されて、変わりに、彫像が彫られていたのです。
いえ、彫像というよりは、女神像。
そう、これは女神像。
私の顔をした。
「ちょっとー!」
民族の象徴にされてしまったわけです。
「問題になりますからー!」
女神の私は、両手で辞典を掲げていました。
「あー、かみさまー」
中田氏が出てくると、連鎖的にお仲間も姿を見せ始めます。
「かみさまかみさま」「かみさまー、おっはー」「きょうもかみさまきたー」「わーい」
神扱い。
「そうか、不安はこれですか」
熱しやすくなつきやすい妖精さん。
私のした何気ない行為はある意味創造的であり、結果として彼らの社会に崇拝の概念を生み出してしまったようです。
もしこの流れが、雪だるま式に、世界中の妖精さんに伝わってしまったら?
妖精さんの歴史において、私が神として君臨することになってしまいます。
「むう」
はっきりいって問題です。
世が世なら大問題だったでしょうね。
私は足下で両手をブンブン降っている中田氏を見下ろします。おもむろに手を伸ばし、ぴと、とツルツルしたおでこに指を当てます。
「・・・うん?」
「はいタッチ。次はあなたが神様」
「えっ?」
ガガーンと、なかた氏は驚愕の面持ち。
「えー?ぼく、かみさまですー?」
「そうですよ。だってタッチしたんですもの」
「なんとー」
「私は神様いち抜け」
「いちぬけ?」
中田氏のめがねが曇りました。よろめき、私のつま先にペトリと手をおきます。
「どない?」とでも言うような表情で、上目遣いに様子を窺います。
「残念。同じ人はもう神様にはなれないですよ。だから私にタッチし返しても無駄なのです」
「ままならぬですね?」
「いやまったく。さあ皆さん、早く逃げないと本当に神様にされちゃいますよ」
周辺の妖精さんたちが、びくりと身を震わせました。
「なかたさんもどうします?このままだと神様ですよ」
「え、あ、えー」周囲を見渡して、「かみさまやーだーーーーっ!」
仲間のもとに駆け出しました。
神の概念は一転して悪鬼のそれとなったのです。
このあたり、人間の神話の歴史とも一致していて、なかなか民族史的には面白いかもですね。
「わー!」「かみさまきたー!」「かみさまがくるー、くるですー」「にげにげするですー」「かみがうつるー」「たいへんだー」「ぴーーーーっ!」
散り散りになって逃げていくよう生産たち。
「まーたーれーよー」
追いかける中田氏。
鬼ごっこの様相を帯び、神様の擦り付けあいが始りました。
「さすがすばやい」
本気になるとリス並に駆け回れるよう生産です。
鬼(神?)ごっこはとてもめまぐるしく、目では追いきれないほどのスピードで展開しました。
空こそ飛ばないものの、ミニチュア建築物に上り、穴があればもぐり、立体的に逃げ回るのですから大変です。
神が、忌まれるというのもおかしな話ですが、似たようなことは人間もやってきているのですしね。
いえ、全く問題がないとは申しませんが・・・。
でもこれで、宗教概念の中核に私が据えられることは回避できるはずです。
「ぴーーーーーっ!」「うぷーーーっ!」「ふあーーーーっ!」「かみーーーっ!」「ごっとーーっ!」「いまはだれがかみーっ!?」「たーっち、たーーーっち!」「きゃいーーっ」「あなー、あなどこー!?」
全ての妖精さんがいなくなるまで十分かかりませんでした。
ここに、都市国家は瓦解して果てたのです。
同時にそれは、調停間としての職務にもリセットがかかったことを意味します。
「まあ、悪名を残すよりはマシですよね・・・」
改めて女神像を観察してやります。
「ほう、こうなったか」
「お、おじいさん?」
突然背中を叩かれ、私はのどもとからくぐもった声を発しました。
祖父はニヤニヤした笑みを浮かべて、背後に立っていました。
「様子を見に来たのだが、どうやらもう彼らは一人もいないらしいな」
「今さっきまではいたんですけどね」
隣に並んだ祖父の視線が、女神像を無遠慮に眺めます。
「十戒のイメージに似てるな」
「聖書の?」
「うむ。石版を割るモーゼのシーンか。あるいは神から石版を授かったシーンかもしれないが」
「つくづく宗教づいてたんですね」
「よほど好かれたようだな、お前は」
私は両手を広げ、皮肉げに告げます。
「皆いなくなってしまいましたけどね」
「いや、放っておいてもどの道こうなっただろう」
「え?」
「彼ら妖精には、集合離散の性質があってな。集まればこのように一夜で都市のひとつもこしらえるが、すぐに飽きて散り散りになってしまう」
「これだけのものを作っておいて?」
「彼らにしてみたら、小手先の工作のようなものだろうな。このくらいのものは」
祖父はかんらかんらと笑います。
「これが今の人類のスタイルと言うわけだ」
「なんだか、楽しそうですね」
「毒にも薬にもならんと思っていた孫が、それなりに面白くなって戻ってきたせいかも知れんな。数日でこれだけやらかすとは、見直した」
「・・・」
うれしくない誉め方ってあるんですね。
「第一、覚悟しとけといったろうに」
「いわれましたけどね」
「こういう相手と付き合っていくには、それ相応のゆるさが必要ということだ」
また背中を叩かれ、私はつんのめって女神像にすがりつきます。
象はゆっくりと倒れ、いとも容易く砕け散ってしまいました。
それを見て、また祖父は大笑い。
この老人、超うれしそうなんですけど。
膝から力が抜けていきそうでした。
ああ、こんなことなら。
「最後まで女神様として君臨して置けば良かった」
これが、私の調停間としての初めての仕事と、その顛末でした。

妖精さんメモ [集合離散]
妖精さんは普段はばらばらに生活していますが、一度群を作ると、爆はつ的に増えていきますよ。
でも、かい散するときは一瞬です。
これを集合離散の性質といいます。

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